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2008年9月 9日 (火)

怒りネット通信第36号

りネット通信
2008年9月9日 第36号
<怒っているぞ!障害者きりすて全国ネットワーク>

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■目次
・合理的差別ということ
・不安と生活困難を感じる社会を変えるために
・障害者、介護保険への移行は無理?
・ヘルパ-さんを探すのは、たいへん
・働けど働けど~ 苦しくなる一方の現場から

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●今こそ、障害者自立支援法撤廃へ
10・31・日比谷公園に結集しよう!


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合理的差別ということ
「差別禁止法」「国連障害者の権利条約」に思う
高見元博


 「差別禁止法」とか「国連障害者の権利条約」とかが新たに出てきて、どう考えたらいいのかが問題になっています。多くの「障害者」団体が何かいいことがあるのではと思っているようです。はたしてそうでしょうか。「合理的配慮」という言葉がキーワードとして出てきています。ここでは、直接そこから離れて、もともと、法律的には合理的差別という考え方があるという問題提起をしたいと思います。法律で差別一般を問題にしたものはありません。(千葉の条例の問題はここではおいておきます。)その中で差別には合理的理由のあるものと不合理なものがあるということが、法律論のなかで言われるそうです。差別という考え方自体が法律論にはないのですが、「差別」であっても合理的理由があれば許されるという考え方があるそうです。

 僕の解雇撤回裁判を例に取ると、一審神戸地裁は不合理な差別であるからとして解雇を取り決すと判決し、大阪高裁・最高裁は合理的な理由のあるものであるから解雇は正しいとしました。僕の解雇撤回闘争というのは郵便配達人だった僕が、「精神障害」で休職期間いっぱい休職していて、休職期限切れの時期に「なんとか復職の道はないのか」と当局と話したときに、当局が「一般並みに働けないならダメだ」ということを言って復職させず、そのまま免職になったというものです。1992年7月6日のことです。僕は解雇撤回を裁判で訴えました。「復職の機会を不当に奪われた」という趣旨の裁判です。その結果神戸地裁で免職取り消しという判決が下りました。当局の控訴によって高裁、最高裁は当局を支持し免職が正当であると逆転判決を下したものです。2000年のことになります。

◆合理的差別論の基準

 ここで合理的、不合理という基準はどこにあったのでしょうか。それが差別を法律的に考える際のキーポイントと思います。神戸地裁は多少能率が落ちても、働くことの出来る職場があったのではないか、というふうに問題を立てました。能率が一般並みでなくても良いという問題の立て方をしたので、それなら原告にも働くことのできる条件があるのではないか、と考えたのです。仕事の内容によっては就労できたかもしれないのにそれを試しもせずに解雇としたのは間違っているという判決でした。不合理な差別であるという線をそこに引いたのです。

 ところが大阪高裁は、「能率の落ちるものを雇用する義務はない」という郵政省の主張を全面的に取り入れました。郵政省は「『障害者』の雇用率は達成しているから個別の『精神障害者』を雇用することは義務ではない。ましてや一般並みの労働の出来ないものを雇用する義務はない。競争社会のなかで能率の落ちるものの雇用を義務付けることは郵便局に不当な不利益をもたらすものであり、不合理である。解雇したことの方が合理的である。能率の悪いものを雇用せよという義務を課する神戸地裁判決はまちがいである。資本主義社会で高見の様に能率の落ちるものを雇用する義務はないはずだ」という趣旨の主張を展開しました。そして僕がいかに重度の「精神障害者」であるかという立証を熱心に行ないました。なお、この時点では「精神障害者」は「障害者」雇用率の対象でもありませんでした。大阪高裁判決はその主張を全面的に取り入れ、そこに合理的差別という線を引いたのです。最高裁がそれを追認したので判例は大阪高裁のものとなりました。

 一般並みの能率の労働ができない者を雇用する義務はない。「障害者」雇用率を達成していれば、個別の「障害者」を解雇しても差別ではないということが合理的だという線です。「資本主義社会では能率の落ちるものを雇用する義務はない」ということが、合理的差別の基準になっています。後に「精神障害者」も雇用率に数えられることになりましたが、それは個別の「精神障害者」の解雇を不当とするものではありません。雇用率を達成していれば個別の「障害者」を解雇しても差別ではないという理屈です。
 これが雇用に関する差別問題の合理的基準をめぐる争いであり、最高裁判決の引いた線です。

◆欠格条項

 法律的に「合理的差別」と言われるものも差別であること代わりはなく、許されざるものであることは言うまでもありません。別の言い方で、「絶対的欠格条項」はまちがいだが、「相対的欠格条項」ならよいという考え方が「障害者」団体の中にもあります。僕の免職は「相対的欠格条項」によるものなので僕の立場は「相対的」であろうが「絶対的」であろうが欠格条項は撤廃せよということです。

 「絶対的欠格条項」とは「障害者」であれば、その職につかせることは出来ないという問答無用の職業からの排除です。「相対的欠格条項」とは、一定の条件を設け、その条件のかなわない場合に職業から排除する法律です。一見すると相対的欠格には合理的配慮があるように見えます。だから「障害者」団体が相対的欠格ならかまわないとしているのです。「絶対的欠格条項」が「相対的欠格条項」に変わったらそれ以上は問題にしないというのが一般的です。

◆「相対的欠格」条項がある限り差別は無くならない

 僕の免職は合理的理由があるとするのが大阪高裁判決であることは既述しました。僕は十分な配慮をしたとしても就労にかなわない状態であったから免職は適法であるというものでした。これは相対的欠格条項の中に当てはまるものです。「障害のために国家公務員に向いていない者は解雇できる」というのが国家公務員法の相対的欠格条項です。誰が「向いていて」誰が「向いていない」かの判断権は雇用者にあります。

 裁判になってもそれが追認されることでしょう。この線がどこに引かれているかはすでに述べたとおりです。いくら「障害者」当該が「僕は国家公務員に向いている」と主張しても、雇用権者が「能率が悪いから向いていない」といえばその職にはつけないことになります。
 「障害」のために職業の求める能率を果たせない者は、職業から排除することは適法であるというものです。これが相対的欠格条項の考え方です。一見して合理的なように見えます。
 では神戸地裁判決とはどこが違うのでしょうか。神戸地裁判決は「相対的」の幅を広く取ったもので、「相対的欠格」も憲法違反であるという僕の主張は入れませんでした。しかし、実質的には「相対的」の幅を広くした結果として「欠格条項」全体を適用しにくくする判決となっているのです。神戸地裁判決は、郵政省が僕の免職に当たって、十分に復職するための条件を検討しなかった点を取り上げています。就労できる適当な職があったはずだし、そのように適当な職があるかどうかを検討しなかった点で首切りのための首切りになっていることを指摘しました。相対的欠格といっても運用次第では絶対的欠格条項と同じ質を持つものだし、したがって相対的欠格であってもこの解雇はまちがいであることを指摘したものです。

 「到底就労できないようなよっぽどのことがない限り免職にしてはならない」という判決です。これでも「よっぽどのことがあれば免職にしてもよい」という論理であり、僕としては容認できないものです。実際に高裁段階では当局は「そのよっぽどのことに相当する『重度の精神障害者』だから免職は正当である」という主張をしました。神戸地裁判決も付け入る隙を与えていたのです。大阪高裁は「合理的差別は正当なもの」という立場に立って、相対的欠格の基準を一般並みの労働が出来るかどうかというところに置いたのです。だから、合理的差別は適法という考え方を容認することは、あらゆる差別を「合理的」とする余地を残すことになります。「障害者」が不合理な差別だといくら主張しても裁判所が「一般並みが基準だから合理的だ」と判決する可能性が極めて高いといえます。それは僕の裁判での最高裁判例がある以上、単なる可能性の問題ではありません。

 民営化された郵便局会社は、この高見免職のやり方を路線的方針化しているようです。最近、復職を求めている「病者」労働者の要望に反して免職にしたという事例があります。免職にしないまでも、復職を求める「病者」労働者の復職を阻むために、主治医が復職可能という診断書を書いても、産業医が復職不可という診断を下して、就労をさせないという事例が続出しています。先ほど書いた免職になった人もこの産業医診断による復職不可という休職処分を繰り返されていたと聞きます。このような免職の事例は陰に隠れて多数あるものと思われます。

 「合理的差別は容認する」「合理的配慮をすれば差別ではない」というような法律を作ったら、何でもかでも「合理的」だとされてしまう現実があるのです。

◆差別の止揚

 結論的には、合理的であろうが不合理であろうが、差別は絶対によくないという立場に立つべきだということです。裁判所という権力機関にその判断をまかせるなどということは最悪です。裁判所というのは国家意思を貫徹するために存在しているのですから、問題がより根本的になるにしたがって、国家意思、すなわち資本家の立場を貫徹しようとします。それを人民のものとするために闘うわけですが、闘いの背景がないところではよりストレートに国家意思が貫かれます。闘いで押し戻すための努力を考えたら、はじめからそのような法律は作らない方が良いに決まっています。

 「合理的差別」、「相対的欠格条項」の立場というのは、ほっておけば全ての差別は合理的だというところに拡大解釈される余地を残すものです。最近の郵便局会社のやっていることはその拡大解釈です。

 「障害者」と労働者のとるべき立場はいかなる差別にも反対、いかなる「欠格条項」にも反対という立場です。その立場に全ての労働者を獲得していったときに、労働者からする差別関係を止揚し「障害者」と労働者が「ともに生きる」社会へ向けての飛躍を実現できるのだと思います。 
 いま「合理的配慮」がおこなわれるなら禁止すべき差別とはみなさないというようなことが言われだしているときに、それが「合理的差別」とどう違うというのか。きわめて憂慮すべきことだと思います。

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今の混迷し不安と生活困難を感じる
社会を変えるために
金子 和弘


 私は40年間に渡り優生思想や能力主義と差別が蔓延する現代社会に障害者運動の立場から様々な問題提起をやってきました。しかし世界は資本主義の横行によって現
在の社会は不安と矛盾と怒りを強く感じざるを得ない状況になってきました。この状況を何とかしたいという思いになるのは私一人ではないと思います。

 さて日本は、この数年間は小泉内閣と安部内閣によって、新しい国造りと称し、構造改革や三位一体改革の名において権力を行使してきましたが、その横暴さは目に余るものがあり、憲法改悪の準備を整へ、戦争に向かっていくことを明確にし、イラクに自衛隊を憲法を無視をして派遣をするなどやりたい放題でした。
 中でも、久間元防衛大臣の「原爆はしょうがない」発言は多くの人たちの反発をかいました。選挙目当てに辞任はしましたが、発言については何ら反省はしておらず、そこの先にあるのはアメリカの原子力艦の横須賀配備であり、他国との危険な戦争準備のための国民誘導発言であったと言わざるをえません。

 その後、自民党は参議院選挙に敗退して安部から福田内閣に変わったが、原油高の影響でガソリンの値上がり、物価の高騰や後期高齢者医療制度や年金の問題で国民の不満や怒りが高まり、支持率が下がり揺さぶられているが、言葉では前向きに対処するような事をいうが何も解決に向かっていません。また先日の洞爺湖サミットにおいては被爆国日本の議長でありながらエネルギー資源を原子力に持って行く案に何の意見も言わず各国の言うとおりになってしまった。これは日本が核を持つのが早まり核戦争の危機を感じさせるのだ。

 そんな中で、私たち国民の所得の格差が大きくなり、生活困難者の増加と自殺者が数三万人を超えた事が報告されています。
 健全者の人でも給料が8万円くらいの人も多くいるし、中でも障害者の生活は「障害者自立支援法」によって色々な制度を使うと年金の50パーセントも取られ、自立どころか生活が成り立たない状況もあります。
 一層深刻なことは、格差やグローバル化を背景とする競争社会からくる社会の荒廃により、人の命をあまりにも簡単に軽く考えるようになってきており、秋葉原の事件のような人間不信がつのり親子兄弟どうしの殺人などの犯罪が多くなったり、弱い者とされ社会に役に立たず邪魔な者とする存在の人の尊厳死とか安楽死がどうどうと語られるなど非常に危険な状況になったと感じています。

 私は障害者運動を長年やって来た者から見ると今の社会状況は、ある意味ではこうなるべくしてなった当たり前の結果だと思うのだ。それはもちろん、国の政策や権力を持った者たちの失敗や奢りもあるが、それを支持し支援してきた多く人たちがいたという事だ。つまり経済成長を第一に生活の向上を願い生産性を上げる事に必死になり競争主義や能力主義を何の疑いもなく受け入れて行った結果だ。
 そこには人間関係が薄くなり、どんな環境に置かれた人とも共存し共生していく意識を無くしてしまい、それについて行けない人たちが多くなってきたからだ。正に人間の本能とも言うべき優生思想を捉え返して来なかったからだ。
 そんな中で本来あってはならないとされる障害者の生活はますます管理と介助保障にしても商品化されていくようで仕方がないし、いよいよ存在そのものが否定され命に関わる危険が出てきた感じがしてならない。

 これからの私達の生活、暮らしは障害者、健全者問わずどうなるのか不安だらけです。今こそ色々な角度から考え社会を変えていく事をしないといけないと思います。単なる階級運動ではなく、人間重視のどんな人でも生きられる運動を作り出すことだと思います。
 私は、このような問題を多くの人と語り、新しい展望を見つけていきたいと考えています。

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7月15日、東京の永田町駅付近で、社会保障審議会障害者部会に向けてビラまき行動を
行いました。
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障害者、介護保険への移行は無理?
(「オ-マイニュ-ス」より)
関根 善一


 以前、「障害者福祉の闇1」の記事で取り上げた「障害者が65歳を迎えると高齢者扱いになってしまう」状態が、いよいよカウントダウンされた。

 今日に至るまで、本人を含む地元の在宅障害者団体および支援者たちが幾度も町田市と話し合いを行い、6月26日に、介護保険1日と障害者自立支援法合わせて、約19時間の介助時間で妥結する結果となった。内訳はこうだ。介護保険介護度5で159時間(約1日5時間相当)、障害者自立支援法介護度6で430 時間(約1日14時間相当)ということだ。

 それまでは月620時間(約1日20時間)の介助時間を得られていた。それは胃腸の働きが弱く、ガスを自力では出せないことから不規則な(本人の意志で)復圧を行うこと、無呼吸症候群やジョクソウ防止のための体位交換が堪えず必要とされていたからで、その他(た)、もちろん全介助あり、本来なら24時間の介助体制が求められて当然な状態だったからだ。それも夜間のヘルパーにボランティアを頼んで24時間態勢を保持していたのだ。

 ところが、65歳を境に1日1時間、さらに減ってしまう。たった1時間と思う人もいるかもしれないが本人にしてみれば大変なことだ。
 1日1時間減る理由は、筋委縮性側索硬化症(ALS)患者で介護保険と障害者自立支援
を併用している人たちとの整合性を図るためだという。しかし、町田市にはALS患者で1人暮らしをしている人はいない。この差は大きいと思うのだが……。

 どうしても合点がいかないことがある。障害者自立支援法は、そのほころびを繕いながらも、この7月から自己負担額が軽減されることになった。大まかに説明すると障害基礎年金1級程度の人は、居宅で6150円から3000円に、通所で3750円から1500円にまで減額される。
 しかし、この7月で65歳になると、介護保険の介護度が5で満額使った場合、障害者自立支援法の自己負担と合算され、本来は3万5000円の1割負担だが、8725円2.5%減額された2万6250円となってしまい、実質、増額されてしまうのだ。体の状態、年金の額、何も変わってはいないのに、同じ障害者でありながら片や減額され、片や増額される……、理解しようにも、これこそ理不尽と言うしかない。
 実は、障害者自立支援法が始まったころ、障害者が65歳を超えて介護保険に移行した場合、障害者自立支援法の自己負担額と合算されるというのは同じなのだが、3%減、6%減というふうに段階的に軽減策を東京都は講じてきたが奇(く)しくも、この7月で期間満了で廃止される。

 引き続き、負担軽減が続くというものは2.5%減の2万6250円のみである。この軽減策を受けるためには次のような要件が満たされなくてはならない。
(1)非課税であること
(2)年間収入が150万円以下であること
(3)貯金が350万円以下であること
(4)不動産を持っていないこと
(5)扶養されていないこと
(6)介護保険料を滞納していないこと
(7)生活保護ではないこと
(8)旧措置者ではないこと

 普通重度障害者の収入は年金手当など含み12万円前後である。しかも、ここで問題にしているのは独居の重度障害者のことを指しているので、これらの用件は(例外は別として)満たす人がほとんどだ。

 いろいろと調べていくうちに、1つ気付かなかったことに出くわした。
 障害者団体と市役所(障がい福祉課)と話し合いを重ねる中で、市側は少ない人員で多くの利用者を扱うデイサービスをしきりに勧めてきていたが、障害者特有の介助については皆無と言ってもよく、障害者が安心していける場所ではないということがわかった。

 それと、デイ使用料と食費については100%利用者の負担となるが上記の要件を満たし申請すると25%引きになるのだという。
 12万円の所得から自己負担をし、足りない介助時間を自腹でやりくりをし、デイの負担まで強いられて本当に人間らしい幸福な生活が送れるというのだろうか。

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ヘルパーさんを探すのは、たいへん
三多摩地区のミキティ


 私はヘルパーをつかって、日曜日に運動に行っています。私は普段は、自分の知っているところにはどこにでも一人で、買い物に行ったり、出かけたりします。でも、日曜日に行っているトレーニングジムとプールの時は、ヘルパーさんを頼んでいます。理由は、ジムの機械のやり方が難しかったり、プールサイドを歩く時に人にぶつかりそうになったりするので、ヘルパーさんに誘導してもらうためです。
 でも、ヘルパーさんが足りなくて、自分の思うように運動に行けません。今私のヘルパーをしてくれている人は、私が前に行っていた八王子の作業所の職員でもある人です。その人は、私との付き合いが長いので、私のことを全部わかっているので、とってもやりやすいです。普段は作業所の職員をしていて、日曜日に私のヘルパーをしてくれます。
 でも、時々日曜日に作業所の仕事があったり、土曜日の夜に他の泊まりのヘルパーの仕事をしたりすると、私の日曜日のヘルパーができなかったり、時間をずらしてやったりとなかなか自分の行きたい時にいくことができません。
 それで他のヘルパーさんも探そうとそていますが、私がやってほしい内容と時間と曜日にあう人がなかなかみつかりません。日曜日にヘルパーをやってもいいと言う人はなかなかいないのかも知れません。それに私は人に慣れるのに人の何倍も時間がかかるので、相性の問題でうまくいかなくて、人が決まらないというのもあります。
 私は毎週日曜日に運動すると決めたいけど、今の状態では月2回が限界で、月1回になってしまうこともあります。

 私のヘルパーさんから聞いた話です。
 そのヘルパーさんが介助に行っている人の中に、24時間介助が必要な人がいます。ヘルパーさんを使いながら何とか一人暮らしをしています。作業所に行っている時間以外はヘルパーさんを必要としています。作業所が休みの日があるので、決められた時間の中でヘルパーさんに来てもらうと、どうしても一人の時間が一日に何時間かずつあります。その時間にどうしてもヘルパーさんが必要な時は、お金を出して来てもらっているそうです。 
 その人のところに来るヘルパーさんを探すのも、とてもたいへんだそうです。ひとつの事業所のヘルパーさんだけではとても足りないので、3つの事業所と契約しているそうです。それでも足りなくて、はじめにもらう一ケ月予定表はいつも埋まっていないので、明日は大丈夫だろうかといつも心配をしていて、安心した生活ができないと言っているそうです。そして、どうしてもヘルパーが足りないところは、コーディネーターの人が入っているそうです。
 今は泊まりのヘルパーをやる人も、前に比べたらすごく減ったと、ヘルパーさんが言っていました。それから、その人は、50代くらいの人なので、やっぱりあんまり若いヘルパーさんは頼みたくないみたいです。また、お風呂の介助をしてもらえる人がなかなかいないので、お風呂に入るのは週に3回が限界だそうです。

 そういうわけで、ヘルパーを利用する人も、事業所も、とても困っています。私もこの先、もし、今すごく慣れているヘルパーさんが何かの事情でやめてしまったらどうしようと、とっても不安です。

働けど働けど
・~苦しくなる一方の現場から~
一地方の福祉労働者


 私が所属する法人は、国による46通達の下、県が整備した社会福祉法人です。特別養護老人ホーム、知的障害者支援施設、保育所、研修施設からなっています。

 かつては、原則県準拠の就業規則により運営され、措置制度での運営がなされていました。当時は、措置費内での人件費比率が100%を超えて県からの持ち出しで運営がなされ、予算要求も間接的に県に求めることができていました。
 しかし、県財政の疲弊が表面化し、全てを独立採算でまかなうよう民営化が図られました。しかも県の財政担当者の天下りというおまけもついて・・・・。そして介護保険、支援費制度の導入、更に障害者自立支援法による障害者施設の新体系への移行と福祉の切捨ては続いています。
 そんな中、利用当事者はもちろんのこと、福祉労働者双方の暮らしや権利を奪いつつあります。大まかに言えば、給与ベース等の労働条件は、使用者側の示す人件費率は60%未満。介護保険が導入されると同時に、激変緩和措置があるとは言え、それまでの給与30%カットでした。更に自立支援法によって3%カットと泣くに泣けない状況に追い込まれています。職員の配置については、最低の配置基準を満たしているとは言うものの、正規職員の配置は、民営化前の4分の1程度です。

 これらに追い討ちをかける最大の問題、原因は使用者の倫理観の無さなのかと思われます。彼らの主眼は、利用者の稼働率が最優先のようです。故に現場を殆ど省みることなく、運営がなされています。そんな中では利用者の実情、家族の思い、職員の声は届きません。福祉の良心は、彼らの市場原理にかき消され、呑み込まれてしまっているかのようです。 

 現在、私が介護員として勤務している特養でも人員不足が慢性化しています。例えば夜勤の際は、利用者75名に対して介護職員が4名程度しかついていません。夏場はTシャツが一絞りも二絞りもできるほどです・・・。そんな職員配置で利用者の人たちに十分なケアができる訳がありません。結局のところ、サービス残業は当たり前、体調が優れない時にも中々休めない状況にあります。労働条件は良くならず、給料も下がる一方で、それでも上からはスキルアップ、資質向上だけは叫ばれています。しかし、そのための研修などについても何らの手当ても支給されません。時間外に、或いは休日を使って、自腹で行っているという現状です。
 しかも、そんな中やっとの思いで資格等を取得しても、これと言ったメリットはないのです。福祉施策の合理化という名の「福祉、弱者切捨て」の潮流、激流のただ中で私たちのような現場の最前線で働く福祉労働者は、疲れた体に鞭打って必死に頑張っているのが実情です。
 この仕事を選択した当初の志も、築き上げて来た今の暮らしも、諸共潰されかけています。私たちは、一体どこまで頑張れば良いのでしょうか?

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