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2010年6月 3日 (木)

怒りネット通信No.43

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 No.43
2010年6月5日発行

障害者運動の40年を語る

 3月22日に、「障害者運動の40年を語る」というテーマで、怒りネットの学習会を開催しました。金子・関根・天野という、30年、40年の運動経歴を持つ、障害者運動の大先輩を講師に、多くの問題提起がなされました。内輪の学習会という当初の予定が、会議室の机を全部片付けなければ入れないほどの参加者があり、熱気がみなぎる4時間半になりました。

【古賀】障害者運動の在り様とか、障害者が健常者と向き合う在り方とか、怒りネットの中でちゃんと話しておくべきという提起を受けて、本日の集まりを設けた。2月に打ち合わせをした際、共通に言われたことは、「色んなことが少しずつ整ってきたが、自分達が提起し目指したものと違っている」との問題意識である。
 では金子さん・関根さん・天野さんという順番でお願いしたい。

■戦後の障害者運動の流れ
【金子】青い芝の金子です。戦後、憲法が作られ、色んな権利擁護運動が大きくなった。障害者運動については、視覚障害者が頑張っていた戦前、僕ら脳性マヒ者は社会から閉ざされた生活を強いられてきた。戦後10年が経った頃、比較的障害の軽い脳性マヒの仲間が、「何とか働く場がないのか」との想いで、職業安定所に行き、全部断られ、その差別的対応を役所に相談に行った。そこで「あなた方にその気があるなら、団体作って運動やったらどうか」と言われ、いくつかの集団が集まった。それが青い芝の始まり。
 何年か経って茨城のマハラバ村に、脳性マヒ者の共同体、生活の場を作ろうとした。ここのボランティア、介護者に、オサラギという坊さんがいた。自分の考えた宗教観を持っていて、社会的に弱い立場の人のことを考えようと思っていた。
たまたまその和尚と考え方が合致したわけだ。「脳性マヒは、身体も悪いけど頭も悪い、全部悪いわけだから、今の社会では弱い立場になってしまう。この人たちを何とか社会に出していかねばならない」と和尚が勝手に思い立った。次第に仲間が集まってきた。横塚さん・横田さん・小山さんなど。あくまで僕らの共同体を作ろうと始まったのがマハラバ村の考え方だった。和尚さんの考えている深い意味はわからなかったが、ここで皆色んな勉強した。マハラバ村が崩壊した後、みんな神奈川に流れていった。和尚から学んだことが頭にあって、横浜の障害者殺しで「何で障害者が殺されることが当たり前なのか」と行動した。そこから青い芝が大きな広がりを開始した。各県に青い芝が作られた。それが集まって全国青い芝ができた。
 その後、優生保護法などに対する反対運動を行ってきて、養護学校義務化問題などが終わった段階で、全国青い芝の初代会長の横塚さんが、青い芝の運動をもっと大きくするには、当時色んな団体が各地に多数作られたが、それらをまとめて運動をやろうと提起して、全障連になった。私は全障連への移行には、時期尚早と反対した。内部が固まっていないし、青い芝の考えもまだ理解されていないので、青い芝が潰れてしまうとの理由で反対した。横塚会長と横塚宅で談判もした。横塚は「金子の言うことも分かるが、今はそこを超えなければ、介助者がいなくなるから枠を広げる」と言った。俺はあくまで反対したので除名された。
 何年か経って横塚さんが亡くなった段階で、俺の意思とは関わりなく、青い芝は全障連から脱退した。健常者とうまくやれない。全障連の中には色んな人やセクト(党派)がいて、障害者運動ではなくなってきた。みんなそれが分かった。
その段階で青い芝はバラバラになってしまった。1976年ころの話。
 その後、青い芝をもう一度頑張ろうと、横田さんが提起して、バラバラになった青い芝を立て直そうと思った。そのころ青い芝の流れは以前とは大きく変って、遺伝子組み替えとか着床前診断、脳死の問題などがテーマになっていた。人数が少ない中で、そういう問題を頑張ってきた。それが今の流れになっている。
 全体の障害者運動は、国際障害者年から大きく変ってきた。アメリカ・バークレーの自立生活運動の流れになっていった。中心テーマは介助保障の問題になった。CILの中西さんとか樋口恵子さんなどが主役。こうした中で、肝心のものが語られなくなってきたと思った。もっと根本的なことを考えていかないと今後の障害者の生活は変ってこない。そういう意味でこれからの若い人に期待している。
【関根】青い芝が青い芝の理念を持って、他の障害者団体をまとめてやって行こうとしたとき、障害者運動が政治党派の運動になってしまい、青い芝の行動綱領が受け入れられなくなった。軒先貸して母屋取られたようなもの。しかし多くの障害者は当時党派の人達に介助をしてもらっていたという問題があり、運動主体のあり様が問題になった。健常者と障害者の関係は昔からあまり変っていないような気がする。

■不便だったが自由、便利になったが不自由
【関根】金子さんがバークレーの自立生活運動を持ち込んだのが今の流れだと言ったがその通りだ。それまでの介助者の獲得方法は、来た者を離さないというやり方だった。来るものを全部捕まえて二度と離さないという根性のある障害者だけが、自分の生活を自分らしく送ることができた。横塚さんや横田さんなどは、「お前ら差別者か」というような攻撃を加えて、介助者を逃げられなくした。僕の場合も、約束の日に来なかった介助者宅に行き、帰宅を待って、「来なかったせいで大変だった」と脅して、介助者を確保していた。それでも、別れは必ず来るが、「月一回でも2ヶ月に一回でも」と言ってつないでいる。30年も続いている人もいる。
 しかし今のCIL運動の流れで、それほど苦労しなくても介助がある程度保障されるようになってきた。いいことではあると思うが、楽な方へ楽な方へ流れていく傾向は見過ごせない。昔は何としても介助者を獲得しなければならなかったため、ヘルパーと利用者という関係ではなくお互いの心に入りこめたが、それがなくなった。
 例えば、一人で駅に行った場合、昔は駅員が手伝わなかった。階段しかないのに、駅員は「俺は今仕事中だ」と断られた。利用者に手を貸すのは仕事ではないのか。そういう状況だった。でも周りの人に声をかけると、結構快く手を貸してくれる。階段の前で「この階段上がりたい」と叫べば、人が寄ってきてくれた。
場合によっては、改札の上を担ぎ上げてもくれた。駅員ではなく周りの一般の人がやった。
 今はエレベータがあってスロープができ、駅員の教育が徹底されていて、回りの人が手を貸そうとすれば、駅員がそれを払いのける。周りの人々との関係性が逆に閉ざされている。今では周りの人に声かけても「駅員呼んできます」という対応になってきた。保障されたがために、かえって健常者との間に大きな溝ができた。
 昔、僕のところには右翼のお兄ちゃんも来ていた。右や左の人がいるので時々大喧嘩になったが、「ストーップ、ここは俺の介助の場だ」と言って、外でやらせた。そういう時代だった。近所の人も雨が降ると洗濯物取り込もうかと気遣ってくれたり、また酒屋やラーメン屋に配達を頼んで、排泄物の始末頼んだりと、地域との密着度が高かった。
 ストレッチャーで四国から単独で東京に来た人もいる。また、あごで電動操作して、キヨスクのおばちゃんに酒飲ましてもらっていた人もいた。あるいは、マクドナルドのお姉ちゃんに、毎回一口大に切ってもらう間柄になることもできた。
そこで生きているという感覚が持てる。ところが今はヘルパーがべったりついているため、社会的な関係が分断されている気がする。地域に住んでいながら、地域という大きな施設に入っているようだ。
 何年も前になるが小笠原に行った。泊まるところを探して片っ端から電話した。
「車イスだが大丈夫か」と。昔は飛び込みで「泊」しようとすると、たまに「布団部屋しかないが、布団部屋でいいか」と泊めてもらったこともある。ところが今は断る名文句がある。「うちはバリアフリーになっていないから」と。「バリアはお前だろ」と思う。「バリアフリー」とはそういう言葉だったのかと初めて知った。
 確かに駅にはエレベータあった方がいいが、無くたっていい。周りの人が手を貸せばいい。手を借りる際には、様々なテクニックがある。アベックを狙うと、たいがい男は応じてくれる。一人じゃ無理だから、周りで見ている人たちも寄って来る。あるいは女高生に声かける。「困ったわ」という顔をしたらラッキーで、男たちがどっと来てくれたりする。楽しかったし面白かった。手を貸した人も車イスの重さを感じると思う。声を出せない人でも、周りの人のズボンやスカートをつかむ方法もある。「何か言いたいのか」と察してくれた。
 CILの流れになって良かったことは、無茶なことができない人のサポートも可能にした。それを繋ぎとめるために有料にした。ポリシーが無くても関われるようになったが、あまりにポリシーがなさ過ぎて、アルバイトになってしまい、何か問題があれば労基署へ飛び込まれてしまう。一人暮らしできる人が拡大したことは事実だが、どういうサポートが欲しいか選べるようになればいいと思う。北欧等へいくと、自分のニーズに合った介助者を募集できる。日本だとヘルパー2級資格を条件にするが、彼らは車の運転、機械いじり、スキーなどで募集する。
介助のテクニックは、学校で教わってきたことより、本人から伝えた方が伝わる。
だから資格なんか要らない。僕らが一番欲しいのは、ヘルパーではなく生活のアシスタント。まさに自立とは何なのか、みんなに問いたい。守られていくことが自立なのか。地域から分断される生活を本当に望んでいるのかと。
 僕は去年の11月でCILを辞めた。相談を受けて不本意にも市役所のワーカーが言うようなことを仲間に言わなくてはいけない。このままだと、自立という概念の大切な部分が崩れて、管理社会の中にどんどん組み込まれていってしまう。何度も言うが、不自由と不便は違うし、自由と便利は違う。昔は不便だが自由だった。今は便利だが不自由。
 昔は家族に障害者がいるとお金がかかったし、ウザい存在だった。今は逆にありがたい存在になった。東京の場合何もしなくても月々18万くらいお金が入ってくる。そのおかげで逆に自立できなくなってきた。昔は「このままだと殺されるかも知れない」という危機感もあり、「こんな家出てやる」と言って出た。若いうちに出ることが肝心、歳とって、家の人が介助できなくなったとか、家の風呂に入れなくなったとか、そんな理由で出るのでは遅い。結局そういう人は簡単に自宅に戻ってしまう。僕はせっかくこの道を掴んだのだから二度と離すかと思う。
施設なんかには絶対戻らない。
 もう一度初心に戻って見ようと思うし、今日のような外出にはできるだけ介助者つけないで出かけようと思っている。システム化された中に生きていて、自由になった、便利になったと思っているが、ちょっと考え直してみた方がいいかなと思った。

■場の共有が必要
【天野】健常者は就職できるが重度障害者は在宅放置、ほったらかしである。障害者と健常者の人生コースの違いを考えると、健常者の一般的な自立は、親元に育って、親元にいる間に就職し、自分で金を稼いで安定するにしたがって、親元を離れ自立生活する。しかし重度障害者は就職できない。多くは家族丸抱え。一部親元から飛び出して生活保護、あるいはCILの職員となって自立を目指す人もいる。そこに在宅のヘルパー制度が展開している。ヘルパーがかなり特別な労働として扱われている。
 いい問題提起をした人が過去にいる。そこに寝たきりの車イスに乗っている遠藤滋さんがその人。遠藤さんは、前は歩けていたがクビの骨がずれて、圧迫して脊髄症になって、今寝たきりの状態。遠藤さんは都内の大学を出て、1974年都内の養護学校に就職した。その当時の遠藤滋さんは下半身は健常者並みの強靭さで、山登りとか電車の駆け込み乗車もできた。しかし腕に重度の障害があった。したがって彼は介助者を必要とする身体障害者であることに間違いはなかった。養護学校の生徒は障害児ばかりだが、同時に教員の遠藤さんも介助を必要とする。教員の多くの主な労働内容は介助。介助しながら読み書き算数を教え、介助の仕方を通じて教育することが職務になっている。そこに遠藤さんのような障害者が就職すると、同僚同士で介助しなければならない。生徒への介助力総体が落ちるので嫌がられいじめられた。しかし、遠藤さんは次のように反論した。養護学校の生徒はやがて卒業し、地域社会へ船出していく。その地域社会は障害者にとって
易しい場所ではない。障害者の教師が地域から出てきて職場にいる。遠藤さんの教員生活を同僚が支えるということは、彼の地域生活も支えることになる。それ自体、擁護学校の生徒の進路保障、地域で生きていく力をつけていく問題提起となっていた。これは障害者運動の中では稀有の問題提起だと思う。障害者が就労することの意義、位置づけをキチンと展開していた。
 文脈がずれるかも知れないが、僕の個人的な体験を述べる。僕の通っていた大学は、静岡県の西部にセミナーハウスがあり、近くの大井川に、橋が架かっていた。その橋は縄でできたつり橋だった。その橋は底に板を敷いただけの簡単な縄のつり橋で、風が吹くだけでゆれる。僕は歩けないので健常者の学生に背負ってもらって渡っていた。背負われている僕は、怖くも面白くもない。なぜかというと、背負われているから健常者の膝・足首・腰などがクッションになって、適度にこの吊り橋の揺れやショックが吸い取られているからだった。したがって、僕はこの健常者学生の背中から下ろしてもらい、直接橋の上の板に立たせてもらった。そしたら怖い怖い、びびった。立っていること自体も至難の業で、落っこち
そうで、全部怖い。そのときひらめいた、これは完全に僕の身体の感じ方だと。
僕の歴史を感じた。僕自身の身体的世界だと思う。何を言いたいかというと、身体障害を丸ごと組み込んで、僕自身の存在だということ。
 この観点と問題意識は僕の重要なこだわりとなっていく。つまり、身体障害も含めて僕自身であり、決して切り離すことができない。その僕自身の身体障害を切り取っていくこと自体無理がある。何が頭にくるかと言うと、身体障害への介助を金に換えて、ヘルパーが介助労働として位置付いている。自分の身体を切り売りしているみたいでいやだ。介助とはもっと自然な人と人とのつながりの中でやることだろうと思っている。介助というのは職場を通じてもどこでも自然なもとして展開して定着して広げて行くべきだと思う。介助労働が特別なものになってしまうのは、多分健常者側の問題。あるべき労働の価値観があって、そこから福祉労働は特別なもの、余分なものと見てしまう。
 昔僕は介助者なしで生活していた。その時、僕は車を運転できるが、銀行に一人で運転して行って、誰もいなくて通行人に声かけてやってもらったり、あらかじめ銀行員に電話かけて駐車場で待っていてもらって、車イスをおろすのを手伝ってもらったり、そんな風に車で移動していたときは面白かった。地域で生きている醍醐味があった。しかし、それ以後は、介助者が徐々に必要となっていく。
それに伴って矛盾した思いも生じてくる。長く付き合って慣れてもらって、介助者として定着してもらいたいという思う一方、多くの健常者に関わってもらって障害者の存在を伝えていきたいという相矛盾した思いをもっていた。介助を通じて運動を広げていくことに精力を注いだ時期があった。70年代のころだった。
 次に、ヘルパー制度についての全体の構造について述べる。まず、お金の回り方について見てみる。税金という財源があって、厚労省がヘルパーの予算を出し、ヘルパー制度が回っている。
 ヘルパーと派遣労働者の問題を述べる。ヘルパーという仕事は、毎月の収入が不安定で、日雇い労働と等しい側面がある。解雇された派遣社員がヘルパー産業に来るかというと、彼らこそ安定雇用とか賃金とか雇用年月とかに敏感で、欠陥が分かるので、多分ヘルパー産業には来ない。
 障害者運動は、労働者とつながり、他の差別の問題と連結しないと視野が狭くなってしまう。単価等の目先の問題だけでなく、国の政策自体の限界と欠陥を突いていかなければならない。
 ニートとヘルパー資格の問題について。最近の若者は社会のシステムに乗らない者が多い。国民を支配する側からはとても気になる動きである。管理を強める動きは、福祉の分野にも貫徹している。東京都は、全身性障害者介護人派遣事業のとき代表者一人か二人を示せばあとは当事者任せで大雑把だった。それが今では一人ひとり身分を明かして、事業所に登録して市役所に報告させ、何をやったか報告させる。相当窮屈になっている。管理したがっているのだと思う。また資格導入によって、資格がなければできない難しい仕事と思わせる作用も大きい。
 最近の若者の資格に対する位置づけについて。資格に関係して、最近の若者はその場その場のステージにあわせて自分を器用に演出することを生き方のスタイルにしている傾向がある。ヘルパーの仕事をしている時は、そういう自分を作るが、仕事が終わった瞬間から全く福祉とは関係ない、極端な場合は差別者に衣替えする。このような報告を、知り合いの福祉現場の三カ所から受けている。これは多分競争社会の激しさが増して、自分の個性や本音を出せず、人間不信になって、資格という衣をまとわなければ自分を守れなくなっている。そういう深い意識構造から、資格導入は支持されてしまう。こうした若者の傾向について、教育改革運動を長年やってる人に聞いたら、「天野君当たり前だよ。小さいから競争させられっぱなしで、自分の本音なんか、失脚するし、足元取られるし、出せな
い。本当は友達欲しいし、かわいそうな存在」と言われた。
 もう一つ、以前は様々な社会問題への関わりの中から障害者の介助に関わってきた人たちが多かった。ところが今は、時給で釣られてくる人が増えている。完全に食いぶち。金目当てできている人は、介助に自分の気持ちが入っていず、長続きしない。
 あと関根さんも言っていたが、地域生活の運動の限界点が見えてきた。例えば僕が街の中で生活して、ヘルパー雇っていると、地域的な関わりがあまりない。
介助者と僕との関係で収束してしまっていて、地域に出たものの、多くの場合、地域の自立生活をしているつもりだが、このような介助者との関係だけに終わっている場合が多い中で、それはあたかも小さい社会的施設にいるようである。したがって、ヘルパー派遣だけを充足させてもまずいと思う。求められているのは「場の共有」。健常者との場の共有と介助者の充足という両方をワンセットでやらないとまずい。遠藤さんの例のように、職場の場を共有しながら介助を自然なものとして解消し、乗りこえて行くような。あるいは町内会なら町内会で、ヘルパー付きでも出て行くことによって人目にさらして、新しい関係を作っていく。
何でもいいから場を共有すべき。ヘルパーシステムだけが先行してしまっては、小さい隔離収容施設ができてしまう。システムだけ先行して、それに乗っかれば楽で便利だが自由がない。関係が広がらない。
 不便だけど自由だった時代がある。和光大の例。1976年車イスの学生が入学してきた。丘の上の大学で、階段だらけだったが、大学は、学外のヘルパーを自分で雇用して、階段等はそのヘルパーさんにやってもらうなら入学を認めると条件をつけた。誓約書まで書かされるというので、僕ら猛反発した。その人は、学内にバリアが張られたような感じで、とても嫌なので撤回して欲しいと言った。学生運動と合体して運動して、結局撤回させた。その結果、当時(70年代~80年代)、階段のあたりでは健常者の学生が自然に声をかける、そういう校風ができた。つまり一緒に存在していればこそできる。場を共有することによって共に認め合って支え合うような感じ。一緒にいる場を共有することが大事。ヘルパー派遣が保障されても、それだけではない共有する場が必要だと思う。
 次に、大きな日本の今までの価値観から見ていきたい。この問題は障害者だけの問題では止まることはないと思う。日本は今まで滅私奉公という価値観が根付いていた。会社に尽くす、家族のために頑張る。個人は関係なく、公に奉仕して生きがいを求めていく。こういうのを滅私奉公という。相手に身を預けて、考え方まで相手に任せていく。ということは、考える力が個人の中に全然育たない。
ところが最近は、その滅私奉公もなくなってきた。人間の価値が縮こまってしまっている。加えて現在は経済状態の悪化に伴って子育て専従者としての母親はその立場が維持できなくなってきている。夫婦共働きをしないと家族が成り立たなくなってきている。したがって子育てという問題が非常に不安定な状況に追い込まれている。そして、一見すると別の問題と思われるかもしれないが前述したように最近の若者たちも一人ひとり分断され追い込まれ、資格という小さな砦で自分を守らざるを得なくなってきている。この事態は昔よりもかなりかなり深刻だと思う。個人が追い込まれている。そういう中で障害者運動がどうやって横のつながりを作っていけるかというのが重要なキーポイントだと思う。

■有料化の誤算
【関根】「場の共有」と言う話が出ていた。支援費制度が始まって以来、自分で集めた介助者が使えないという状況になってきている。使うからにはヘルパー2級以上の資格を持っていなければダメといわれる。措置の頃の方がよっぽど自由だった。今は時間でヘルパーを換えられて、一日4~5時間しかない中で、掃除・洗濯等の時間しかなく会話をする時間がない。人と人との関係性を築けない。
 昔は人が居ないから介助者をクビにできなかった。今の障害者はすぐにクビにする。例えば、ワカメが増えること知らないで鍋をワカメで満杯にした奴。あるいは米を洗剤で洗って炊く奴。コロッケを炭にしてしまった奴など、そういうダメダメな介助者に付き合うことが楽しい。そうした中で相手も自分の悩みを語り出す。ところが今はそれがない。障害者は、介助者のちょっとした失敗で辞めさせてしまう。自分が努力して集めた介助者ではなく、事業所が派遣した介助者だからそれができる。自分が苦労して、街頭に立ち、ビラを撒いて関わってくれとお願いする。ワカメ大造君でも、決してクビにしなかった。今、利用者と介助者の間で人間関係が希薄になっている。場合によっては眠らず討論したことも何度
もある。介助者の問題も自分の問題になってくる。そうやって関係性ができていた。今では、介助を受けていてもつまらない、面白くない。施設にいるような錯覚に陥る。天野さんの話を聞いていて、介助を有料化したことは大きな誤算だったと思う。有料化したのは自分達の介助を守るためには、まず介助者の生活の安定化させなければいけないと思った。だから介助者が介助以外の仕事に行かなくても済むように、自分が見つけた介助者にお金を払っていきたい。そうすることによって自分の生活が安定するし、気心知れた人が介助者として定着できると思って有料化した。それによって、今まで不可能と思われていた最重度の人たちが街で暮らせるようになったことはいいことだが、一方で、関係性が失われてきた。
関係性ができていれば、どんな相手でも、ダメダメ介助者でも、ワカメ大造君でもいい。だけど関係性ができていないで、いきなり「2級ヘルパーを持っています」とか、「何でお前が受かったんだ」と思うような介護福祉士が来て、偉そうに「たまにはこうやって動かして、リハビリしたらどうか」などと余計なこと言われたりして腹が立つ。そこには上下関係があって仲良くなんかなれない。仲良くなるには、話す時間が必要。話していたら洗濯ができない、掃除ができない、色んなことができなくなってしまう。だから悪循環。
 僕らは有料化が必要だと思って始めた。介助者が介助をやっていてもちゃんと生活できるように始めた。これは僕らのポリシーがあって、自分の介助者にちゃんと介助やってもらいたいから、保障してくれとやってきた。そのことは間違いではなかったが、そこには誤算があった。事業所が間に立ち自分の意向が反映されていかなくなった。誤算のもう一つは、資格・資格ということによって、自由に人集めができなくなった。お金が介在することによって、金ありきになってきてしまった。どんどんアルバイト感覚になってしまった。
【金子】誤算というより、介護保険になって、ヘルパー制度の資格化など、介助
を一律に同じものとすることによって管理し易くした。
【関根】そこに障害者が努力せずに介助を受けられるようになった。要するにお膳立てされて、楽な方に乗っかって、あたかも自分が権力を持ったかのように錯覚した。行政の方が巧妙。行政に利用されたという意識がある。
【天野】ヘルパーがちょっと気に入らなかったり、ドジすると、辞めてもらって次を派遣してもらう、チェンジが気楽にできてしまうという感覚が若い障害者に芽生えている。ヘルパーは事業所が育てるべきだと思っている。事業所の責任を追及することが、権利だと思っている風潮に変ってきている。
【関根】それに加えて、ヘルパーも「労働者という意識」が高くなり、何か問題が起きると労基署へ飛び込む。障害者もダメならダメな介助者もはびこっている。
確かに重度心身障害者と言われている人達は絶対的な保障がないと地域で生活できない。それはそれで重要だと思うが、小1と高3が同じ給食を食べているようなもの。
 今、働ける障害者を作ろうと一生懸命だが、できるわけがない者もいる。それをどうするかという方が先決。昔は訓練施設で腕に技術を持てば社会に出られるということで、一生懸命励んだ。68年ころ荒木さんという人が無免許で運転した問題があった。彼は脳性マヒだったが、養護学校出た後、電気に詳しかったのでテレビの修理ができた。荒木さんはそれらを運ぶために、車の免許を取ろうとしたが、教習所で断られた。彼は3年間無免許で運転して、事故や交通違反を一度も起こさなかったが、たまたま検問でつかまった。裁判の中で、免許を取らせない方が悪いと主張した。欠格条項との日本で最初の闘いだと思う。
 そのように、昔の人達は無茶すれば自分で仕事できた。科学や文化が進んで、ここ十年で携帯も機能が高度になって訳が分からなくなった。個人で治せるという次元のものではなくなった。靴屋とか、印刷屋もある。印刷屋で昔は版に一個ずつ活字を入れていって名刺とか作ったが、今はワープロやパソコンの普及で必要なくなったし、名刺なんか自分で作れる。文化が進んだことによって、障害者はどんどん社会参加の場から追い出されてしまった。
【Aさん】必ずしもそう言えないのではないか。コンピュータと通信技術が発達したから、自宅にいて職場に通わなくても、自宅で会社から情報を貰って、就職できている人もいる。

■障害者雇用の実情
【関根】実際何人かそういう人を知っている。企業は雇用促進法によって障害者を何パーセントか雇わなければいけない。雇用促進法を使うとその企業には恩典がある。給料も6割が国から出たり、駐車場を確保できたり、トイレ等の改造費用が出たり、車まで買ってもらえる。そのような恩典が2年か3年ある。そうすると2~3年経つとだんだん居づらい環境にさせられて、新しい障害者に換える。
そうするとまた何億という雇用促進法が使える。前の人が使っていたコンピュータ等はそのままそこに残っている。
【Bさん】3年のスパンではなく3ヶ月。
【天野】しかも別棟を作る。健常者だけの職場を改造するのではなく、別棟を作ってそこに車イスの連中だけを送り込んで働かせる。
【関根】今は特定子会社というテーマがある。昔の特定子会社は、例えばトヨタの特定子会社の場合、トヨタの仕事を障害者だけが集められてしなければいけなかったが、今はそうじゃなくてトヨタの資本でパン屋さんやってもいいし、本屋さんやってもいい。そこに集められて、本社から出向された親分がいて仕事をさせてくれるのだが、それは雇用促進法に則ったものだから回転が速い。すぐ用済みポイ。新しい障害者入れるとまたお金がガバーと入る。
【天野】しかも、ヘタに障害者雇うと保険とか更生医療で大変。3ヶ月毎に入れ替えた方が楽。回転がいいし。無理させるとすぐ病気になって二次障害になっちゃうから、それよりも早期に回転させて職場を維持させるように仕向けているようだ。
【Bさん】天野さんが「場を作る」ことが重要と言った。コンピュータでは場ができるわけがない。私は今、知的障害者の作業所で働いている。国や行政は、就労させろ就労させろと言うが、疑問に思う。知的の場合は周りと話ができないなどで難しい。作業所のほうも、怠けたような人は企業に送れないから、キチンと上司のいうこと聞いて仕事こなすような人しか入所させない。そうじゃないと就労できない。だけど就労しても結局自分で辞めちゃう。作業所の職員と違って話なんか聞いてくれない、みんな忙しいから。
 今のところ一番成功したのは特定子会社。というのは、管理職は健全者、あとは障害者。つまり作業所とどこも変らない。それで、絶対本業やらない。車なんか作らせない。杉並に公民館に喫茶店あるのだが、これはアパレルがやっている。
経団連のホームページを見ると、作業所とは違って(特定子会社の場合)十万払っている、これに年金つけたら18万だから暮らせると書いてある。要するに障害者に対する保障を切り捨てていく、あるいは障害者が自立して納税者になるという意識を、障害者ではなく周りの人に思わせる効果を狙っている。テレビで頑張っている知的障害者の番組やる。そうすると実際に接していない人は素晴らしいと思う。作業所の職員によく行政が言ってくることは、遊ばせないでちゃんと就労させろと。作業所としては、就労率を上げるために、就労に乗らない障害者はお断りする。就労に乗らない障害者というのは、仕事できない障害者ではない。
例えばパニックを起こしてしまう人が作業所から弾かれている。障害者を知らない人はあたかも作業所で専門家がキチンとした訓練をすると、税金まで納めてくれるような人にできるのではないかと錯覚する。
【Cさん】感想。僕は学生のころ寮にいた。恒常的ではないが、身近な人の介助に関わったことがある。当時は言われたらまじめに受け止めて、「やらなければいかん」という感覚が強かった。その後、だんだん関わらなくなって、その間に制度が変って、ヘルパー制度も整えられた。今日のような話を聞くまでは、色々問題や意見もあるだろうが、少なくとも仕事として関わるヘルパーが増えた。これはいいことだと思っていた。皆さんも否定していないし、僕もそう思うが、でもやっぱりその上でというのが出されている。最近若いヘルパーさんとも交流があるが、単に仕事としてではなく、それなりの問題意識をもってやっている人も確実にいる。そういう中で僕ら何を目指していくのかをさらに考えて行きたい。

■養護学校の実態
【里内】僕は養護学校がどうなっているか聞きたい。今の肢体不自由児養護学校では、障害者は主張できなくなったし、欲求が弱くなった。
【関根】以前は、障害児だけの空間であったが、普通学校と中身は同じだった。
しかし今は、養護学校は変った。親が頑固に望めば力のある子は普通学校に行ける。養護学校にいる子は、重度どころか重症のような子が多くなっていて、養護学校自体が保育園の延長のようになっている。学業そのものはほとんどやっていない。一人か二人が特例的に集中教育を受け、大学に行く場合もある。お客様的扱いでもいいなら、僕らレベルの障害だと、普通校にいける。今は脳性マヒの早期発見で、手術を受け、相当良くなる時代になった。
【天野】「今なら、早期治療を受けると、天野君程度の障害では訓練で歩けるようになる」と言われる。里内さんの質問。要するに養護学校の生徒は重度心身障害児だけになっている。特別支援学校でどういう教育を受けているかというと、知的障害児の場合は、治安対策の対象物として扱われている。要するに集団に合わせる、盗みをしない、協調性を保つためだけに教育を注いでいる。その結果、自分の意志がない。ボランティアにくっ付いて、とぼとぼ下うつむいて歩くだけ。
自我が育っていないという問題も起きている。ただこれは前からの問題。
【関根】それは前から。レストランに連れて行かれても、例えば山に行けば山の物を食べ、海に行けば海の幸を食べるというのは、今となっては当たり前だが、海に行っても山に行っても、カレーライス。なぜかと言うと「自分のことは自分でやりなさい」という圧力がかかっていたから、スプーンで食べられるものはカレーライス。海の幸というのは食べるには骨や殻があったりしてややこしい。今の僕らは、「骨全部取って」と頼んだりして食べるようになったが、「自分のことは自分でしましょう」と強調されるために、頼んではいけないのだと思ってしまう。だからどこへ行ってもカレーライスだし、デパートでは金魚のうんこみたいにリーダーの後を付いて行く。
【天野】物を盗まないとか。それに力を注いでいて、本人達は自我が育たない。
養護学校の教員で進路指導をしていた友達がいるが、健常者もそうなのだが、「君はどう考えるの、君は何したいの」という自我を育てたり、自我に対する問いかけが、日本の教育にはないのだと。で、知的障害の子の場合なおのことそうで、自分が何をしていいかわからない。そして彼らには、集団を乱してはいけない、物を盗んではいけないと、協調性だけが求められる。だから暗い顔してとぼとぼ所属集団についていくだけとなる。
【関根】CILに20年位いて、相談業務を担当していて、本当に愕然としたことがあった。一人の子が「自立したい」と相談に来た。高校まで普通校の中を生きてきた。その後リハビリテーションセンターに入所するまで、自分のことをダメな人間だとずっと思っていた。ところがセンターに入って、車も運転できるし、自由に外へ出てもいいし、酒を飲んでもいいんだということを初めて知ったと。あれやっちゃダメ、これやっちゃダメと、明確な裏づけがないのに決め付けられていた。それを信じ込んでいた。これは普通校の中で、いかにお客さん的扱いだったかということだ。いわば障害を持っている子との逆の分断が行われていたということだ。
 普通校行っている子が放課後、色んな学校から学童保育なんかで集まってきたりすれば話は別だが、町田市の例でいえば、良くも悪くも送迎体制がしっかりしている。子供は授業中で社会性や人間関係が身につくわけではない。登下校の過程も重要。ところが送迎体制のおかげで、エスケープもできなければ、不登校もできない。普通校には先輩になりうる人がいない。
【Dさん】若い障害者が運動に参加してこないのはなぜ。
【関根】一つは、今の生活に不満を持っていない。要するに居るだけで金になる。
障害者の子供2人居るだけで、お母さん何もやらなくてもいい。居てくれるだけで食べていける。もう一つは、自分に恐怖を覚えない。親が確実に先に死ぬという危機意識が持てない。
【天野】今は社会資源がそろっている。また養護学校は今すっきり分かれている。
身体障害者だけとか、知的障害者だけとか、重度心身障害者だけとか。異質なものとのぶつかり合いの中で自分の立場を自覚したり、差別を感じたり、いざこざがある中でもまれて育って、自己意識が芽生えるのだが、そのきっかけすらうまくつかめなくなっている。

■「支える、支えられる」をどう超えていくか
【酒井】世田谷で基準該当の小さな事業所をやっている。全員が知的障害をもっている8人ほどの自立生活を応援している。そのうち4人は24時間体制で支援体制を組んでいる。今日の話は参考になり、教えられることもあった。当時は、この社会の中で生きていくために介助者を自分の力で集めなければならなかったし、介助者は、差別に反対し、共に闘う同志にもなった。介助者集めは、そういう人間関係を作ることと同じことだった。介助は労働であると共に同志的人間関係作っていくもの、そこは大事。
 介助は労働、仕事であるという位置づけが今の制度の中でできている。契約制度はそれ自体大きな矛盾があるのだが、少なくとも「介助は労働だ」ということが大きく社会的に位置づけられてきている。介助を保障せよと皆さんが闘ったのは、公的な保障がなかったからであり、やらざるを得なかった。制度がなく何の保障もなかったから、自分でやるしかなかった。今は、それほど苦労しなくても一定の保障が誰でも受けられる。まだ十分ではないが、仕事として確立してきた。
 大事なことは、この社会の中で、介助が必要な人は誰でも介助を受けて、当たり前に生活できるということである。自分で集められない人、自己主張できない人、主に知的な障害を持っている人達とも私たちはこの社会の中で対等に生活していける、介助を全面的に受けながら生活していける、そういう社会になるべきだという考えで、事業所をやっている。それほど努力しなくても当たり前に介助を受けられるという仕組みは必要。
 70年代当時、介助というのは「手足でいい」という考えの人もいた。そういう主張を読んだこともある。その人達が言っていたのは、関根さんや天野さんが言っていたこととは違って、介助はあくまで手足のように自分のやりたいことを受身的にやってくれる人で、そういう人を使って自分は社会に出て行くというもの。
 今私が思うに、やはり知的な障害を持っている人達の介助に入ってもらうためには、どうしてもしっかり介助できる人でなければならないと痛切に思う。そういうことを抜きにしてしまうと、その人の生活を支えられない。その上で、単に手足ではない対等な関係性をどう作るかというのは、難しい課題だと思った。
【天野】両方必要。人間関係・介護技術・労働条件の安定もすべて必要。でもなお、本来的には、人間関係で超えていって欲しい。自己表現ができず、通行人を捕まえることができない人は最低限命の保障が必要だから、システムを充実完備しなければならないが、同時に教育もする、身分も保障していく。将来的には自由選択にして、力のある人はそれに任せるという方向が良いと思う。
【関根】ニーズに合わせて、押し付けられるのではなく、選べるようにできればいい。介助者の方が働きかけなければ生活をつくっていくことのできない人もいれば、自己マネージメントができる人もいる。だからそれぞれが自分で選べるならだいぶ変ってくる。画一的な介助を押しつけられるのであれば、それはまさに施設にいるのと同じになってしまう。決め付けられるのは嫌だけど、自分で選べるようないくつかの素材を作ってもらうなら良いと思う。
 もう一点、これは前々から思っていたことだが、もし健全者がちゃんとポリシーを持ってこの仕事のプロになるのなら、健全者の運動として厚労省にも行って欲しい。要するに僕らが健全者の肩代わりをして運動している部分がある。ここまで高めてきたら健全者は健全者としての自尊心を持って闘うべきだと思う。自分が食うために、好きでこの仕事選んでいるわけだから、障害者運動ということだけではなく、自分の運動でもある。だからその辺をみんなが気づいてくれたらもっと強力な運動になっていくのではないかと思う。
 単なる介助で厚労省に行くのではなく、自分のこととして闘って欲しい。それを今まで肩代わりしてきたのがJILでありDPI。誰かがやらなければできなかったからやってきたが、地域にこれだけの障害者が生きていて、関わっている健全者は多数いるわけだから、障害者に頼らず、それぞれが主体性を持てば、いい共闘関係ができると思う。
【Eさん】職業的になっているという点。今の制度の中では、自立を目指すというのは知的の場合は、目指したくても目指せない。事業所に任せたのではもっとできない。結局(家族が)自分でやる方法も検討しなければならない。
【天野】個人が引き受けなければならないシステム自体がおかしい。知的障害は軽く見られてなおざりにされている。やはり身体障害の人がいかに繋がっていけるか。それはこちらの課題だと思う。

■代筆してくれない銀行
【Aさん】関根さんから便利と自由は違うという話があった。銀行の話が出たので一言。以前は名前も住所も銀行員が代筆して全部処理してくれた。最近は、一切代筆してくれなくなった。どこの銀行でも、同じ断り方をされてしまう。「できません。誰か他の人を連れてきてください」と。「できません」と言われると意地悪されているように感じる。ある銀行に行って、「あなたもきっと答えないのだろう」と、からかうつもりで聞いたら、その人はできない理由を教えてくれた。
「それをやるとクビになるかも知れない。警察が来て逮捕されるかも知れない」だから「勘弁して欲しい」という。金融庁の方からやらないようにというお達しがきているといわれた。ほとんどの行員は、その理由すら知らないまま対応しているのかも知れない。関根さんたちが言ったように、便利なようで不自由な世の中。どうやって打破するか僕も悩まされる。
【関根】セキュリティとかシステムが強化されればされるほど障害者は大変になってしまう。セキュリティを高めることは必要かもしれないが、ある意味、そこまでセキュリティを高めなければいけないというのは、人間関係の崩壊でもある。
【関根】今日は色んな問題が出た。こういう機会は定期的にやらないと磨耗してしまう。今日は一回目だから、多くの問題提起をした。ひとつずつ考える場というのが、なかなかなかった。障害者運動も衰退していく中で、こういう話をする機会というのは今後ますます必要になっていく。たまたま今回はこの3人で行ったが、別の提起者で、また集まる機会を持ちたい。

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