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2010年8月 7日 (土)

8/6ヒロシマ平和の夕べ

0001 今年も暑いヒロシマの夏がやってきた。8/6ヒロシマ平和の夕べに参加した。今年は連れ合いとともに小旅行をし、その足でヒロシマ入りした。ぎりぎりの時間に行ったので資料館等をめぐることはできなかった。来年のことを言うのは気が早いだろうが、つぎにヒロシマに来たときにはゆっくりと資料館なども巡りたい。資料館へは30年以上足を運んでいない。0002 8/6ヒロシマ平和の夕べは今年で3度目であったろうか。毎年工夫を凝らした趣向で知的好奇心を満たしてくれる良い集会が開かれてきた。今年はリレートークとして、池田精子さん、知花昌一さん、メインスピーカーとして高史明さんの講演が行われた。池田さんは被爆体験の語り部として 0003 、短時間に凝縮して被爆の実態を語られた。知花さんは、今年の5・28は第4次の琉球処分だったと、琉球処分の歴史を語られた。本土の運動には期待しないと、厳しい立場を表明された。党派ではない運動の広がりを追求するとも語られ、それが私たちとの繋がりの線であろうと思われた。0004_2

高さんは、ににんがしを自明のこととする数学的な合理的理性は、人間を原子や粒子に分解したところで、生命を見失った。時計も人間も同じ粒子からできているということを見出したところで、その二つは変わらないものとされ、生命を見失う。原子の領域でヒロシマ型の数千倍の爆発力のある核融合爆弾を作った。3発で日本は全滅する。と現代の科学がもたらしているものを糾した。数学的合理的理性を本当の理性に変えていくために親鸞の言葉を考えたと言われた。自分という知恵で見出さねばならない。日本と朝鮮の関係、北朝鮮に対するまなざしを考えようと提起され、それが日本の平和を開く道だと語られた。

また質疑の中では、脳死か心臓死かという論争になかで、動きが止まることが死だと定義され、生が無味乾燥なものとなった。最近の子殺しは如何に人間が生を見失っているとともに死をも見失っているか。論争の場を広げていかねばならないと提起された。

親鸞の言葉を引用して語られたことは、簡単に理解の及ばないことであったし、広辞苑と同じ厚さの本に収められている思想をわずか1時間の講演ですべて理解しようというのは欲が深すぎるであろう。数学的な合理的理性に対する批判の眼差しは、私たちが日常のなかで浸りきっている、理性というもののあり方に対する根本的な批判であり、かつもくさせられるものであった。人間を粒子と理解することにまで行き着く数学的合理的理性は、ににんがしというところから始まっているし、日常的な、毎日読む新聞からしてその範囲内にある。本当の理性は生と死をどう理解するのかというところから始まらないといけない。

根本的な転換が必要だと提起された感がする。生と死を見つめる眼差しをもつことが数学的に割り切るという在り様を止揚する支点なのであろう。今年もまた一つ学んだ。親鸞の思想がどれほど深いものであるのか、私が接近するマルクスの思想では到達できないものなのか。マルクスに何も付け足してはならないという思想が生み出した空虚を知っている私としては、マルクスの思想を深めるために親鸞を知ることがあるのかもしれないと思う。広辞苑と同じ厚さの本を読むという気はしないが、この講演から学ぶべきことがあるのは明らかだったし、講演で語られた思想の天地を転覆する転換性の中に、現代の闇を明けさせる支点となる思想を読み取ったのは間違いではなかろう。

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