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2010年8月

2010年8月30日 (月)

政府は約束していない?!

6月22日の総合福祉部会のやり取りのなかで政府側委員は、違憲裁判の和解は厚生労働省が行なったもので政府全体でも国でも約束していないといっています。これは議事録が公開されているのですが、それ以外でも和解を進めるための原告と政府との話し合いでも同様なことを言っているようです。

厚労省は和解したかもしれないが政府の他の省庁や国会を拘束するものではないということを言い出しているのです。とんでもない言い分です。このようなことを許さずに、10・3関西集会、10.29日比谷公園に集まり、抗議の声を上げよう。
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○藤岡(開始30分頃)
・基本合意文書の意味づけについて誤解ないように説明させていただきたい。
基本合意文書はだれが拘束されるかというと厚労省だけが拘束されるのではない。
契約当事者は国(厚労省)となった経緯がある。厚労省が管轄として責任をもつということで、厚労省という独立法人があるわけではありませんので、あくまで国家であるということ、国会議員も国会も内閣も含めての国家が拘束されている契約書であるということが第一点。
・14の地方裁判所では基本合意文書全文が訴訟上の和解調書の中身にはいって第一条で確認されている。そこで契約されているのは国家。千葉法務大臣が国家を代表して訴訟上の和解をしています。これは判決と同一の効力があります。
・そういう意味で、あくまで基本合意文書第2条を違憲立法審査権を問題にした訴訟ですので、国会が当事者としての被告だったので、国会や国会議員が訴訟上の当事者です。
・今回のことが議員立法だから基本合意と関係ないとは断じて言えず、ぜひみなさんの共通認識にしていただきたい。

●藤井企画課長
・厚労省は「国」は、立法府含めた国全体とは認識しておりません。
・「国(厚生労働省)」としましたけれど、国=厚生労働省でありまして、財務省や総務省や他の役所ときっちり議論してつくったというものではない。ましてや立法府を含めて国全体という認識はしておりません。
・もし、そうでないということであれば、この合意文書そのものを、定期協議もあるのですから、またあらためて考え直すということも、考えなきゃいけないと、いまのご発言はそのように受け止めますので、三役にはご報告しますが、一言申し上げさせていただきたいと思います。
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2010年8月26日 (木)

9月28日、医療観察法をなくす会の1日行動

差別と拘禁の医療観察法はいらない
    9・28全日行動へ!
 
医療観察法はいま、2005年7月15日の強行施行から5年目の「見直し」の年に入っています。施行後の運用実態は、「精神障害者は危険」との差別偏見を助長、法的根拠なしの隔離や身体拘束、長期入院、治療の寸断、適正手続き保障の不備等々、この法が精神障害者差別法であることを実証するものとなっています。この強制医療下で14名が自殺に追い込まれました。

国はこのような問題点を覆い隠したまま、入院施設の「整備が進まない」現状を省令「改正」や告示というウルトラな手法で法破綻を繕ってきました。唯一の謳い文句「手厚い医療」の水準を引き下げるなど、法の建前さえ否定せざるをえないところに負い込まれているのです。国はいま、少なくも施行状況に関する国会報告の義務を負っていますが、それさえも先送りしようとしています。

 内閣府に設置され多くの当事者で構成される「障がい者制度改革推進会議」でも医療観察法は障害者権利条約に違反するとの意見が大勢を占めました。しかし一方、改悪に向けた様々な動きも顕著になっており、私たちは更に大きな廃止のうねりを作りださなければなりません。

 私たちは、「見直し」を「廃止」にすべきものとして、今年の闘いを1月の通常国会開会日の国会行動から開始しました。3月、5月には国会行動・院内集会、7月の京都集会では約200名の仲間とともに廃止への決意を新たにしました。

この決意の下、9月28日(火)に全日行動を呼びかけ、11月28日(日)には全国集会(東京)も開きます。今秋、多くの仲間が医療観察法廃止への道を私たちと共にされるよう強く訴えます。

9.28全日行動
■8時30分~10時30分 国会前座り込み(衆院第2議員会館前)
地下鉄永田町駅  国会議事堂前駅 徒歩5分
■11時~16時 院内集会(場所は改めてご連絡します)
■18時30分~21時 医療観察法廃止を求める集会
   東京芸術劇場中会議室(5階)、資料代500円、池袋駅西口 下車5分

医療観察法をなくす会/医療観察法(予防拘禁法)を許すな!ネットワーク/国立武蔵病院(精神)強制・隔離入院施設問題を考える会/NPO大阪精神医療人権センター        連絡先 reboot2010-owner@yahoogroups.jp Fax:03-3961-0212

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2010年8月23日 (月)

沖縄闘争論の試み

昨日、とある所で勉強会が開かれ参加しました。沖縄問題をどう考えるのか、刺激的なお話が聴けました。

沖縄に75%の基地を押し付けていることは承知のとおりです。それを撤去できないでいることをどう考えるのか。「安保の問題だから安保改定までは撤去できない」という考え方があります。「基地を本土に移転することは基地のたらいまわしでありよくない」ということの裏返しの意見でもあります。でもそう言って何十年も現状を沖縄県民に強制してきたではないか。その反省がないといけないが本土の人間はあまりそうは考えていない。現に沖縄に基地とその被害を押し付けておきながら自分の「安全」が守られていたらいいという感覚がある。左翼のなかでさえ犠牲を沖縄県民の強いているということがそんなには反省されていない。

沖縄問題は「民族問題である」と考えたときに次にどうするのかが出てくるのではないか。ほとんどの日本人は沖縄を侵略したという意識をもっていない。朝鮮侵略の問題では日本人はようやくだが一定の闘いの陣形の中に、朝鮮を侵略したという意識をもっている。それが沖縄との関係で問題になるのは2007年の教科書問題からだった。しかし、沖縄県民が歴史の偽造に怒ったようには、日本人の側は問題として捉えられていない。

憲法9条はアメリカ駐留とのバーターだった。憲法闘争論として考え直す必要がある。反米という点で一致団結できるのと考える人もいるがそれは違う。日本帝国主義の成立条件の問題として考える必要がある。

安保問題ではなく、沖縄侵略の問題として捉えなおす必要がある。差別構造が沖縄に基地を存続させている。中国共産党による新疆ウイグル支配の構造と同じことなのだ。左翼には、レーニン主義が民族問題を抹殺してしまったと同じDNAがある。レーニンは自国内の少数民族であるユダヤ人が、「ユダヤ人ブント」を作ることを認めなかった。自国内の少数民族に自治権を認めないというDNAが左翼に染み付いてしまった。沖縄問題を「特殊な民族問題」と言って、民族問題とは認めない考え方が左翼の中にもある。しかし、民族問題というのは常に「特殊」なのだ。特殊でない民族問題などは存在しない。

少数民族の自己決定権と先住民族の権利回復の一環として沖縄問題を考える必要がある。といった話でした。

私も、沖縄問題を少数民族の自己決定権の問題として捉えたときにはじめて沖縄の解放の問題が腑に落ちるということがありました。民族問題としてしまうと日本人の中から排除してしまい、新たな差別を生むということも危惧されます。しかし、それは日本人の受け止め方の問題であり、少数民族だから差別されて当然という立場に道をゆすってしまうことになるかもしれません。

沖縄は15世紀には琉球国として成立しています。それ以前からも王朝としてはないけど琉球人としてはずった生きて来たのです。日本の文化は南からの伝達ルートがあったのですから、沖縄のほうが先に文明化していたともいえます。琉球国が消滅するのは明治政府による1879年の琉球処分によってです。それまではひとつの民族として存在していた。その事実を直視する必要があります。

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2010年8月21日 (土)

医療観察法初の重大事件

保安処分推進派の山上皓ならなんと言うのでしょうか。こういう事件を防ぐための制度といううたい文句だったはずですが。結局いくら保安処分制度を作っても防げないなら、何百人も同施設に送ったことはどう総括するのでしょうか。もし今回も同施設に送られるのであれば、それこそ一生物にされることでしょう。病気が治ったかどうかではなく再犯の恐れが基準になるのですから。

この人が人格障害なら医療観察法の対象外ですし、刑法で罰せられるべきことでしょう。人格障害の場合は心神喪失・心神耗弱は認められないので医療観察法の対象とはならず、刑法の対象となって刑務所に行くことになります。また、本当に心神喪失・心神耗弱であるのなら、人格障害という過去の診断結果が誤っていたことになります。伊賀弁護士の言うような「必要な制度だが、診断が誤った」ではなく、「不必要な制度な上に誤診が多く、廃止するしかない」と言うべきことと思います。

それからこの「誤診」をしたかもしれないのがまたしても肥前病院というのも気になります。

■医療観察法で初の重大再犯/2人殺害容疑で逮捕の男
<2010年8月4日 共同通信>

 大阪市で5月、男性2人を刺殺したとして殺人容疑で逮捕された男(45)が、事件の約3カ月半前まで、重大な他害行為を行い心神喪失などで不起 訴となった場合
に適用される医療観察法の入院治療を受けていたことが4日、関係者への取材で分かった。

 2005年の施行以来、医療観察法対象者が重大な再犯の容疑で逮捕されたケースが明らかになったのは初めて。同法は症状を改善し再び同様の行為 をせずに社会復帰
させることが目的で、現在、施行後5年の見直し時期を迎えている。制度の是非をめぐる司法や医療関係者の議論に影響を与えそう だ。

 法務省精神保健観察企画官室は「同法の対象者だったかどうかも含め、個別のケースには答えられない」としている。

 男は5月、同市西淀川区の自宅で男性2人の胸などをナイフで刺し殺した疑いで大阪府警に逮捕された。「命を狙われており、やられる前に殺した」 と話し、大阪地検が供述の不自然さなどから精神鑑定が必要と判断し、鑑定留置されている。関係者によると、男は08年、西淀川区のコンビニで客を 殴った傷害容疑で逮捕されたが起訴されず、同法対象者として佐賀県内の指定病院に入院。その後大阪府内の病院に移り、ことし1月末に裁判所の判断 で「処遇終了」となり退院、一般の精神科に通院していた。

 男は1997年に全日空機内で乗員に刃物を突き付けたとしてハイジャック防止法違反容疑で逮捕されたが「心神喪失状態だった」と不起訴になっ た。98年には福岡県での殺人事件で福岡地裁が限定的な責任能力を認定。実刑が確定し服役した。厚生労働省によると、ことし3月1日までに同法の 入院決定を受けた989人のうち517人が退院している。

●心神喪失者医療観察法
 殺人や放火など重大事件の容疑者や被告が心神喪失・耗弱を理由に不起訴処分や無罪となったケースで、検察官の申し立てで裁判官と精神科医による 合議の審判を開き、入院や通院を命令できる手続きを定めた法律。2001年に大阪教育大付属池田小で児童8人が殺害された事件を機に成立、05年 7月に施行された。「密度の濃い医療が提供されている」と評価される一方で「触法精神障害者を隔絶する保安処分だ」と批判も根強い。

●制度は有効だが誤診か
 日弁連医療観察法部会事務局長の伊賀興一弁護士の話
 医療観察法は国が精神科医療に直接責任を持つ初めての制度。その部分で評価すべきで、基本的に有効に機能していると考えている。ただ、今回は医 療観察法に乗せるかどうか判断する際、人格の偏りを病気と誤診してしまったケースではないか。入院中の医療や退院の判断に問題があったとの議論に はならないだろう。そもそも裁判所は「責任能力あり」と判断すべきだった。ただ、刑務所に行っても再犯の防止にはつながらず、今回のようなケース に対応するために別の制度の整備を検討する必要がある。【共同】
 http://www.healthnet.jp/syukan/pages/2010/08/sf201008_2.htm

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2010年8月10日 (火)

惨い事件です

むごい事件が起きました。以前から問題視されていた、心神喪失が認められながら医療を保障されないまま17年放置されていた事件で当該の方が自殺されました。大阪拘置所の鈴木さん虐殺糾弾民事訴訟のような取り組みができないものなのでしょうか。ずいぶん昔の話になりますが、大阪拘置所に収容された鈴木さんという「精神障害者」が、医療行為によって殺され、遺族と共に民事訴訟を闘い賠償を勝ち取ったということがありました。賠償されても死んだ人は戻ってきませんが、虐殺してそのまますむわけではないということは勝ち取れたと思います。昨日の事件もそのような取り組みができないか考えられないでしょうか。弁護士は誰だったのでしょうか。事件の存在を知りながら何もできてこなかったという無力さを痛感し、賠償で私たちの主体的無力さがどうなるものでもないと思いつつ、殺した側には責任をとらせることがどうしても必要であると感じます。

読売新聞より
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100809-OYT1T00879.htm

心神喪失被告を16年拘置、目にはし刺し死亡

 精神鑑定で心神喪失と診断され公判が停止された後も、16年近く千葉刑務所(千葉市若葉区)で拘置されていた40歳代の男性被告が死亡したことがわかった。


 自傷行為とみられる。同刑務所が9日発表した。

 発表によると、被告は7月30日午前0時過ぎ、両目にはしが刺さった状態で発見され、8日に病院で死亡した。はしは木製で被告のものだった。

 千葉地検などによると、被告は1992年10月、千葉県松戸市内でガソリンスタンド店長(当時38歳)を鉄パイプで殴って死亡させ、約56万円を奪ったとして強盗殺人罪で起訴された。精神鑑定で心神喪失とされ、千葉地裁松戸支部は94年12月に公判停止を決定したが、その後も同刑務所に拘置された。

 弁護側は95年、同支部に拘置執行停止を請求。しかし、そのまま留め置かれたため、昨年9月に「訴訟能力を回復するには治療が必要」として、医療施設へ移すよう求める意見書を同支部に提出していた。

 男性の元弁護人は「裁判所がなぜ放置してきたのかわからない。鑑定書で自傷他害の恐れがあると指摘されていた通りになったのだから裁判所に責任があるのではないか」と話している。同刑務所は「普段から異常な行動は見られなかった」としている。
(2010年8月10日01時36分  読売新聞)

以下朝日新聞

心神喪失と診断、勾留17年の被告が自殺か 千葉
2010年8月9日20時37分

 1992年に強盗殺人の罪で逮捕、起訴されながら、その後の精神鑑定で統合失調症による「心神喪失」と診断され、千葉刑務所(千葉市)の拘置施設に17年以上も勾留(こうりゅう)されていた男性被告(49)が死亡したことが9日、千葉刑務所などへの取材で分かった。同刑務所は自殺とみている。

 死亡した被告は92年10月、千葉県松戸市のガソリンスタンドで店長(当時38)を殺害し、現金約56万円を奪ったとして逮捕された。起訴後、千葉地裁松戸支部で裁判が始まったが、被告は裁判官らとの受け答えもままならず、精神鑑定で「心神喪失」と診断された。同支部は94年12月に公判停止を決定したが、被告は専門の病院で入院治療を受けることなく、拘置施設に留め置かれた。

 千葉刑務所によると、被告は7月30日午前0時10分ごろ、頭にけがをした状態で拘置施設の単独室で倒れていた。千葉市内の病院で治療を受けたが、8日午後7時半ごろ死亡した。死亡した状況から、刑務所は自傷行為による自殺とみている。

 被告の元弁護人は「裁判所や地検は『被告の訴訟能力の回復を待つ』と説明していたが、医療機関への入院など適切な治療を受けさせなかった。自殺という重大な結果を招いた責任は重い」と指摘している。

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2010年8月 7日 (土)

8/6ヒロシマ平和の夕べ

0001 今年も暑いヒロシマの夏がやってきた。8/6ヒロシマ平和の夕べに参加した。今年は連れ合いとともに小旅行をし、その足でヒロシマ入りした。ぎりぎりの時間に行ったので資料館等をめぐることはできなかった。来年のことを言うのは気が早いだろうが、つぎにヒロシマに来たときにはゆっくりと資料館なども巡りたい。資料館へは30年以上足を運んでいない。0002 8/6ヒロシマ平和の夕べは今年で3度目であったろうか。毎年工夫を凝らした趣向で知的好奇心を満たしてくれる良い集会が開かれてきた。今年はリレートークとして、池田精子さん、知花昌一さん、メインスピーカーとして高史明さんの講演が行われた。池田さんは被爆体験の語り部として 0003 、短時間に凝縮して被爆の実態を語られた。知花さんは、今年の5・28は第4次の琉球処分だったと、琉球処分の歴史を語られた。本土の運動には期待しないと、厳しい立場を表明された。党派ではない運動の広がりを追求するとも語られ、それが私たちとの繋がりの線であろうと思われた。0004_2

高さんは、ににんがしを自明のこととする数学的な合理的理性は、人間を原子や粒子に分解したところで、生命を見失った。時計も人間も同じ粒子からできているということを見出したところで、その二つは変わらないものとされ、生命を見失う。原子の領域でヒロシマ型の数千倍の爆発力のある核融合爆弾を作った。3発で日本は全滅する。と現代の科学がもたらしているものを糾した。数学的合理的理性を本当の理性に変えていくために親鸞の言葉を考えたと言われた。自分という知恵で見出さねばならない。日本と朝鮮の関係、北朝鮮に対するまなざしを考えようと提起され、それが日本の平和を開く道だと語られた。

また質疑の中では、脳死か心臓死かという論争になかで、動きが止まることが死だと定義され、生が無味乾燥なものとなった。最近の子殺しは如何に人間が生を見失っているとともに死をも見失っているか。論争の場を広げていかねばならないと提起された。

親鸞の言葉を引用して語られたことは、簡単に理解の及ばないことであったし、広辞苑と同じ厚さの本に収められている思想をわずか1時間の講演ですべて理解しようというのは欲が深すぎるであろう。数学的な合理的理性に対する批判の眼差しは、私たちが日常のなかで浸りきっている、理性というもののあり方に対する根本的な批判であり、かつもくさせられるものであった。人間を粒子と理解することにまで行き着く数学的合理的理性は、ににんがしというところから始まっているし、日常的な、毎日読む新聞からしてその範囲内にある。本当の理性は生と死をどう理解するのかというところから始まらないといけない。

根本的な転換が必要だと提起された感がする。生と死を見つめる眼差しをもつことが数学的に割り切るという在り様を止揚する支点なのであろう。今年もまた一つ学んだ。親鸞の思想がどれほど深いものであるのか、私が接近するマルクスの思想では到達できないものなのか。マルクスに何も付け足してはならないという思想が生み出した空虚を知っている私としては、マルクスの思想を深めるために親鸞を知ることがあるのかもしれないと思う。広辞苑と同じ厚さの本を読むという気はしないが、この講演から学ぶべきことがあるのは明らかだったし、講演で語られた思想の天地を転覆する転換性の中に、現代の闇を明けさせる支点となる思想を読み取ったのは間違いではなかろう。

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