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2010年8月23日 (月)

沖縄闘争論の試み

昨日、とある所で勉強会が開かれ参加しました。沖縄問題をどう考えるのか、刺激的なお話が聴けました。

沖縄に75%の基地を押し付けていることは承知のとおりです。それを撤去できないでいることをどう考えるのか。「安保の問題だから安保改定までは撤去できない」という考え方があります。「基地を本土に移転することは基地のたらいまわしでありよくない」ということの裏返しの意見でもあります。でもそう言って何十年も現状を沖縄県民に強制してきたではないか。その反省がないといけないが本土の人間はあまりそうは考えていない。現に沖縄に基地とその被害を押し付けておきながら自分の「安全」が守られていたらいいという感覚がある。左翼のなかでさえ犠牲を沖縄県民の強いているということがそんなには反省されていない。

沖縄問題は「民族問題である」と考えたときに次にどうするのかが出てくるのではないか。ほとんどの日本人は沖縄を侵略したという意識をもっていない。朝鮮侵略の問題では日本人はようやくだが一定の闘いの陣形の中に、朝鮮を侵略したという意識をもっている。それが沖縄との関係で問題になるのは2007年の教科書問題からだった。しかし、沖縄県民が歴史の偽造に怒ったようには、日本人の側は問題として捉えられていない。

憲法9条はアメリカ駐留とのバーターだった。憲法闘争論として考え直す必要がある。反米という点で一致団結できるのと考える人もいるがそれは違う。日本帝国主義の成立条件の問題として考える必要がある。

安保問題ではなく、沖縄侵略の問題として捉えなおす必要がある。差別構造が沖縄に基地を存続させている。中国共産党による新疆ウイグル支配の構造と同じことなのだ。左翼には、レーニン主義が民族問題を抹殺してしまったと同じDNAがある。レーニンは自国内の少数民族であるユダヤ人が、「ユダヤ人ブント」を作ることを認めなかった。自国内の少数民族に自治権を認めないというDNAが左翼に染み付いてしまった。沖縄問題を「特殊な民族問題」と言って、民族問題とは認めない考え方が左翼の中にもある。しかし、民族問題というのは常に「特殊」なのだ。特殊でない民族問題などは存在しない。

少数民族の自己決定権と先住民族の権利回復の一環として沖縄問題を考える必要がある。といった話でした。

私も、沖縄問題を少数民族の自己決定権の問題として捉えたときにはじめて沖縄の解放の問題が腑に落ちるということがありました。民族問題としてしまうと日本人の中から排除してしまい、新たな差別を生むということも危惧されます。しかし、それは日本人の受け止め方の問題であり、少数民族だから差別されて当然という立場に道をゆすってしまうことになるかもしれません。

沖縄は15世紀には琉球国として成立しています。それ以前からも王朝としてはないけど琉球人としてはずった生きて来たのです。日本の文化は南からの伝達ルートがあったのですから、沖縄のほうが先に文明化していたともいえます。琉球国が消滅するのは明治政府による1879年の琉球処分によってです。それまではひとつの民族として存在していた。その事実を直視する必要があります。

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