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2011年9月11日 (日)

「精神病者は社会を告発する者」という捉え方

先日アップした文章を大幅に加筆修正しました。ぜひご意見を投稿して下さい。

「精神病者」運動

かつて、「精神病者」運動のなかで、「精神病者は社会を告発する者」という捉え方があった。提唱者ははっきりとは覚えていないが吉田オサミさんではなかったかと思う。吉田さんは1970年代に活躍した「精神病者」で、いろいろとそれまでには無かった観点を提起していて、学ぶべき点が多い。
 吉田さんの提起したものをそのまま再提起するには記憶が定かではない。そこで私が考えるところを述べる。「精神病」はなぜ生じるのか?社会の矛盾を一身に背負わされた結果ではないか?私を発病例として取り上げてみよう。
そもそも私はなぜ発病したのか?多くの「病者」同様、私の場合も少し複雑で、はっきりと病気になるのは、左翼党派内の虐めが原因だ。そこに至るまでに、子どものころからの親による虐待によって病的であり、高校時代に腎臓病で周りから孤立していたことも病気を進行させていたと思う。21歳くらいに左翼党派に参画するが、そこで激しい虐めに遭い、はっきりとした統合失調症の域になっていた。さらに27歳くらいに職業病で鬱になったことで働くことが出来なくなり、「精神病者」としての人生を歩むようになった。今の診断名は「統合失調症性の鬱」というものだ。
他の「病者」に聞いてもこういう複雑なケースは少なくない。子どものころに遠因があるケースを良く聞く。精神病院でも小児外来が有るところがある。思春期に発病する人も多い。それらのケースをそれぞれに検討すべきだが、私はその任に適当ではないので、自分のケースを掘り下げてみたい。

個人に病因を探す諸説

私の場合、親を含めた社会的原因で発病した。発病原因は社会の側にあるのであり、個人的資質の問題ではない。発病を個人的資質のせいにすると、病気であることは「病者」の中で自己完結してしまう。克服すべきは「病者」の資質であり、自己の中で努力すべきこととされる。自己否定にまで行き着く考え方だが、多くの学説が個人の側に原因を求めている。ストレスに原因があるという説でも、個人の側の受容性にも原因を求める説もある。厚生労働省が労働災害認定に使っているのはその説だ。「ストレス脆弱性」理論と呼ばれているもので、ストレスの強さと共に、個人の「脆弱性」の要素が発病の原因とされ、労災切りに使われる。
最近ではシナプスの異常が発見されたりしている。しかし、脳機能の障害を発見しても、他の要因で脳機能に障害が出ていることを否定は出来ない。まず始めには何があったのかを特定しうる説ではない。
より多くの「病者」の体験を総括すれば、社会的原因があることは、もっとはっきりするだろう。親子関係は個人が最初に出会う社会だ。

病気と障壁

発病した後働く場から追放されることによって、「病者」人生を歩むことになったのも、社会的障壁が原因だ。私の場合働けなくなったのは不眠症によって昼間起きていられなくなったためで、その後不眠症は改善したが今度は薬がきつくて働くどころではなくなった。それでも、社会的活動をしているわけで、それを労働ともみさないのは社会がそうなだけだ。社会的原因で発病し、社会的障壁によって隔離されるというのが「病者」の一般的在り様だ。
いま、広い意味での福祉によって生きているわけだが、今の福祉は「生かさず・殺さず」、低所得者が犯罪に走らないようするためであり、最低限生きていく額でしかない。
すると、生きていくこと自体が社会のあり方と矛盾することになっている。社会と矛盾しないと生きて行けない。「生かさず・殺さず」の中に安住することが出来るだろうか。最低限の人間らしさも否定されてはいないか。食べる・住むことは保障されているがそれ以上ではない。それだけで人間は生きていくのではない。趣味も金のかからないものしか持てない。私は今「病者」の俳句クラブに入っているが金が掛からないから続けられている。
「人間らしさ」を簡単には言えないが、労働できないということで社会から追放されるのは確かだ。福祉的労働というものがあるが、その場自体が社会から隔離されてはいないか。また、福祉的にでも労働できるのは少数者だ。労働できるか否かで「病者」間の分断もある。
人間とは何かという大きなテーマにも関わるが、人間は社会と関わり社会のなかで相互に働きかける関係で生きている。社会から全く孤立しては生きていけないし、それを「生きている」と言えるだろうか。引きこもりの場合でも、親との関係とか最低限の社会的紐帯はあるのでは無かろうか。無人島での生活を描いたロビンソンクルーソーの小説でも、彼は社会を作った。フライデーの存在なしには生きられなかったと描かれている。
「病者」の場合、そのような意味で最低限の社会的関係はあるとは言え、社会の側から拒絶されていると感じるのは考えすぎではなかろう。

開き直り

「身体障害者」の世界で、「障害は個性である」と開き直ったことは、画期的意味があった。それまで障害は努力して克服すべき現実であり、「哀れみと施し」の対象でしかなかったものを、障害は社会の側にあるのだ、「障害者」は権利主体だという大転換を果たした考え方だからだ。
「病者」の場合も障害が社会の側にあるというのは共通したことだ。しかも、発病には社会的原因がある。「病者」となって後に、自らを人間であると主張することも社会と激しくぶつからざるを得ない。「哀れみと施し」を極限まで進めると、差別抹殺となる。「病者」が事件を起こすとことさらに病気が強調され、社会の憎しみの対象とされる。「病者」は社会の敵ナンバー1とされている。そこで「敵で結構」と開き直ったのが、吉田オサミさんではなかったか。そこに彼の画期性があった。
「病者」も人間である、権利主体であると主張する時、社会と激しくぶつからざるを得ないのだ。病気であることを自己否定すれば自殺まで行き着く。病気であることを否定するのではなく、自己肯定し、「病者」も人間だと自己主張することは、社会と激しくぶつからざるを得ない。病気であること自体が社会の歪みに原因があるのだから、自己否定することは、社会に負けることだ。しかし、自己肯定にはリキがいる。自己肯定し社会の歪みを告発し、社会の歪みと対決する時こそ、患者会の存在意義があると言うべきだ。患者会で「病者」が生きていくリキをつけると考えた時、患者会は社会的な存在価値があるのではないか。患者会そのものが社会に物申し、社会を告発する時に、患者会に皆が集まるという意義が見出せるのではないか。ひょうせいれんはそうありたい。

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コメント

はじめまして。

私も会社で精神病を発症してしまいました。
私は理論的に話せるぶん、理に合わないことに対して抵抗し、また私が周囲を変えようとしたことに対する周囲の抵抗から、会社をやめるに辞められず、発症してしまいました。

社会の矛盾に敏感なのは、私は悪いこととは思っていません。そういう人を切り捨てる会社に問題があるように思います。

投稿: 月 | 2011年9月14日 (水) 20時41分

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