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2012年11月12日 (月)

マルクス主義的「障害者」解放論の構築へ向けて(試論の掲載)

(KG氏の試論であるが、ここで掲載する。意見を寄せていただけるとありがたい。)
馬渕浩二「世界はなぜマルクス化するのか。資本主義と生命」を読んで
「能力」と「労働」のマルクス主義的見方について

理論なくして運動はないが、試論として次のようなことを提起したい。

馬渕浩二の「世界はなぜマルクス化するのか。資本主義と生命」を読んで、「障害者」解放運動にとって示唆に富む内容だった。
馬渕の主張の部分は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というコミュニズム原則を直ちに実行すべきだというところにある。媒介にすべき革命論はその中身から行間を読むということだろうか、具体的には書かれていない。旧来のマルクス主義とは違うところで、マルクスの思想の有効性を論じている。「旧来のマルクス主義」とは馬渕はスターリン以降のソ連圏とその影響下にあるいわゆる社会主義陣営、日本共産党とおそらく社民党を想定しているが、われわれがその例外とは言い切れない。われわれの反スターリン主義は果たして「旧来のマルクス主義」と決別しきれていただろうか。

旧来のマルクス主義では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」のが第一段階とされていた。資本家による搾取をなくしただけで、能力の差については、我慢すべきこととされているようだ。マルクスは極めて初期の段階を想定していたようであるが、スターリン以降は「普遍化」されている。これは、能力とは何かに踏み込まない考え方と言わねばばらない。旧来のマルクス主義では共産主義の高次段階になってはじめて「必要に応じてうけ取る」原則が適用できると、実際にはそれは「彼方化」されてしまっていた。

馬渕は「能力も社会的・共同的に形作られるものであり、個人の所有すべきものではない」と論じ、共同的に作られた「能力」を個人の所有と考える「労働に応じて受け取る」社会は矛盾していると論じている。能力というものは個人が単独で獲得してきたものではなく、社会の共同の働きが個人の中に蓄積されたものであろう。であるならばその果実は社会に還元すべきものではないのか。

現代資本主義社会においてさえ「労働に応じて受け取る」のではなく、「労働」しないで生きている人たちはたくさんいる。子供や老人や「障害者」がそうだ。女性の多くもそうだろうか。それは家族的紐帯のもとにあるか、公的費用によって生きている。馬渕は「労働」しないで生きていくことを権利として認める必要があると言う。いまでは憲法25条でかろうじて命をつないでいるようなあり方をやめて、誰でも「必要に応じて受け取る」社会がマルクスの考えであると。

この辺で「障害者」解放運動論ができてくる。「障害」とは手が不自由とか足が不自由とかいう医学的欠如にあるのではない。社会の側に「障害」を受容する装置がないことが障害の実体だ。「精神障害者」についても症状や薬の影響に障害の実体があるのではない。「障害者」の持っている能力を生かす社会の受け皿がないことが障害の実体・実物なのだ。「障害者」の持っている能力を生かす社会の側の受け皿があれば、障害は苦にはならないし、障害として意識することもないからだ。電動車いすを操れる「障害者」にとって、電動で行ける空間では「障害」は苦にならない。一方で段差やトイレの不備などがあると「障害」は苦そのものとなる。よく水を飲む人が多い「精神障害者」にとってはトイレのない空間は「来るな」と拒絶されているように感じる。

ところで人の能力は共同的に作られたものなのだから、「障害者」の能力も社会的・共同的に規定されたものだと捉え返すことができる。「障害者」が要求する「バリアフリー」などのことは「必要に応じて受け取る」原則にかなったことではないか。「障害者」が「労働」せずに「必要に応じて受け取った」としてもそれはマルクスの言うコミュニズム原則にかなったことだ。将来社会では「労働」の概念もまた違うものとなるだろう。旧来のマルクス主義で「労働」というのは今でいう賃金労働に限定されるのであり、協働的社会における「労働」のことではない。協働的社会では、「障害者」の労働は今よりもずいぶんと幅の広い捉え方がされるであろう。今でもイタリアでは、「精神障害者」の労働が一般賃金が保障される協同組合においてなされている。日本の箕面市の「障害者」作業所における賃金は行政の補填もあって、一般の最低賃金に近いと言われている。日本では「障害者」作業所の賃金は年間で数万円しかないのが一般的である。

だから、馬渕はさらに、「賃労働」によらない社会とのかかわりが存在すると言う。家事労働もここに入っていただろうか。家族のかかわりはここに入る。資本主義の下でも賃労働以外にも社会とのかかわりがあるということだ。「労働」に至上の価値を置く旧来のマルクス主義ではなかった考え方が提示されている。「障害者」の活動(社会活動のみならず・生命活動も)も社会とのかかわりあいだ。それは決して無意味なものではない。「労働」(限定された「労働」)によらない社会との関わりが積極的に確認されることで、「障害者」が無意味に生きているのではないと、社会に必要とされているのだと確認することができるようになる。この確認は重要なことだ。協働的社会においても労働しているとは言えない「障害者」も社会が必要としているのだ。われわれは、松田勲同志の存在と闘いからも、それを確認できるのではないか。「障害者」が社会から必要とされていないとしたら、その社会が貧困なのだ。

総じて、マルクスの考えに沿った形で「障害者」解放運動論を組み立てていくことが可能になった感じがしている。以前はマルクス主義は現状分析の手段としての有効性はあっても、解放そのものはきわめて漠然と将来の共産主義社会に差別はないという原則を述べることだったように思う。(筆者の誤解かもしれないが)。「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」コミュニズム原則を適用する、能力についての考え方が提示されたことによって、可能になった深まりがある。
馬渕の提示しているのはもちろんそれにとどまるものではない。ご一読をお勧めする。
(KG)

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