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2013年12月30日 (月)

「病者」の歴史。

資本主義社会の形成と「精神病」の階級的性格。
哲学者フーコーによる研究によって、図らずも狂気は復権された。フーコーは狂気の歴史を研究し、それが社会と取り結ぶ関係性は決して固定的なものではないことを証明した。今日常識と思われている狂気は悪という観念は歴史的に形成されたものであり、狂気はいつの時代も悪とされたわけではなかった。同時期に、1960年代から80年代にかけて活躍した日本の「病者」・吉田おさみ氏は、「狂気の肯定」という、価値観のコペルニクス的転換をなしたことによって、「病者」解放運動の一つのルーツとなった。
「狂気」という意識の在り方は古いが、社会が「受け入れなくなる」歴史は新しい。書かれた歴史の中では、プラトンは狂気は神憑りのような状態であり、神が人間の意識を訪れた徴と考えた。人間には理性で認識できない物を認識する眼が植えつけられていて、狂人はその目の働きが純粋な者と考えた。シェイクスピアの中の「病者」も、決して悪いようには書かれていない。それは「真実を語る者」として描かれている。狂人は社会の一成員であり、排除された場合でも悪者ではなかった。
フーコーは次のように描写する。
「水面から浮かび上がり、文化的風景の中に何の困難もなく統合された。15世紀末というのは、たしかに、狂気が言語の本質的な力と、再び関係を結んだ時期の一つであろう。・・・無数の狂人の踊りや狂人の祭りが、ヨーロッパのルネッサンス期を通じて、好んで催された。・・・さらに狂人の文学というべきものがたくさん生まれた。エリザベス朝の演劇や、古典時代以前のフランス演劇に見られる精神錯乱の場面は、夢とか、少し後の告白場面などと同様に、演劇という構築の一部となっている。こうした場面は、劇を導いて錯覚から真実へ、偽の解決から真の決着へとみちびいて行く。つまり、これらはこのバロック時代の劇の本質的な原動力の一つというべきものなのである。・・・ルネッサンス末期におけるシェイクスピアとセルバンテスは、この狂気の多いなる威信を証明している。・・・17世紀初頭のフランスには、有名な狂人たちがいて、公衆が、しかも教養ある公衆が、好んでもの狂人たちを相手に楽しんだ。・・・何人かの狂人たちは本を書き、それが出版され、狂気の作品として読まれた。1650年ごろまでは、西欧文化はこうした体験形態に対して、ふしぎに受容的であったのである。」(精神疾患と心理学・以下同じ)
このような蜜月は長続きはしなかった。重商主義の時代になり商業が盛んになると価値観の転換が起きた。それに伴って狂気は疎外された。
「17世紀半ばに、突然、変化がおこった。狂気の世界は疎外の世界となる。大きな収容施設がヨーロッパ全土につくられ・・・。肢体不自由の貧困者、困窮老人、古事記、頑固な怠け者、性病患者、各種の風俗壊乱者、家族の意向または王権により公の刑罰を加えるわけに行かない人、濫費家の父親、破目をはずしてさわぎまわる聖職者など。要するにすべて理性、道徳および社会の秩序に関して「変調」の徴候を示す人たちが閉じ込められた。」
収容施設はフランスでは「一般病院」と名付けられた。非理性としてくくられることで狂人もまたこの収容施設に入れられることになった。人口の1%にも及ぶ貧困層が収容されていた。そこは慈善事業の対象となると同時に、労働によって完結する経済体でもあった。
価値観の転換とは何であったか。宗教改革によって労働に対する考え方が変化した。労働は神聖な行為となった。すると貧困は救済すべき神聖なものと考える感性から、避難すべきものであり慈善事業は罪悪であるとみなす感性へと変化した。この感性によると、労働しないことは「神の力を試すこと」だった。最悪の反抗と見なされた。収容施設における労働は倫理的な意味をおびていた。
「商業の世界における最大の悪徳、とくべつの罪とはなんであるかが定義されたばかりであった。・・・怠惰にほかならなかった。収容施設に住むすべての人を一括する共通なカテゴリーとは(彼らの責任であろうと事故のためであろうと)富の生産、流通および蓄積に参加できない、ということであった。」
「道徳的・社会的に有罪なものと狂気とは、親類としての縁をむすぶことになり。・・・20世紀において、狂気自体の中心に、有罪性と攻撃性の原始的な核が発見されたことも、おどろくにあたらないことである。西欧史が300年来、狂気に対して行ってきたことの沈殿物に過ぎない。」
狂気は罰すべきものとなった。そして現代の精神病理学もまたこの価値観から自由ではない。狂気を正すべきものと考える考え方はこの時代から始まり今日に至っている。それは決してアプリオリなものではなく、時代を背景にした歴史的に形成されたものなのである。吉田おさみ氏は狂気を治療すべきものとは考えなかったが、それには根拠があったのだ。
しかしその時代も1世紀も続かない。経済の発展は工業化をもたらした。重商主義の時代は、生産者でも消費者でもない貧民は監禁すべきものであった。しかし市民社会の発展は新しい感性をもたらした。工業の発展は労働者を必要とした。貧民は閉じ込めていくべきものではなく工業の中に引き入れる必要が生じた。貧民にも労働させるべきである。収容施設は廃止すべきものとなった。
「隔離収容は・・・1世紀以上は大して維持されなかった。1789年以前、及びフランス革命の改革者たちは、隔離収容は古い圧制の象徴であるとして、これを廃止しようとし、また同時に、施療院による扶助というものは、困窮階級の存在をあらわすものとして、できる限りこれを制限しようとした。」
収容施設から貧者は解放されたが、「狂人」を解放するわけにはいかなかった。
「しかし、狂人は自由な身にもとされると、周囲の家族や集団にとって、危険な存在になりうる。彼らを拘束しておく必要と、「狂人や危険な動物」を放浪させておく者に対する刑罰は、ここから生じる。この問題を解決するために、革命時代と帝政時代に、昔の収容施設が、次第に狂人たちに充てられるようになった。この度は狂人専用である。」
ここに精神医学と呼ばれるものが始まる。それは医学が発展して新しい学問が花開いたというわけではなかった。収容を続ける必要があり、しかしそれまでのようなただの監禁というわけにはいかないという事情から考え出された「学問」だった。精神医学が発展して精神病院ができたのではない。まったく逆なのだ。精神病院ができたから精神医学ができたのだ。
そのことはまた神話になっている「精神医学による精神病者の解放」というのも大きな嘘だということを示している。たしかに鎖でつなぐことを止めたが、別の方法で縛りつづけたのだ。
「たしかに隔離収容ということは、当時において新しい意味をおびた。医学的性格を持った措置となったからである。・・・ピネル・・たちは隔離収容という古い習慣の鎖をほどいたのではない。かえってその鎖を。狂人たちのまわりにしめつけたのである。・・・彼を治癒させるということは、依存感情、罪の自覚、感謝の念など、すべて家庭生活の道徳的な枠組みをつくるものを、彼に再び教え込むことを意味する。これに成功するためには、おどかし、罰、食事制限、恥辱など、要するに、すべて狂人を幼児化させ、同時に罪あるものと無うる手段を利用することになる。」
「19世紀の「慈善」は「解放」という偽善的なかたちのもとに、狂気を道徳的サディズムの中にとじこめたのだが、このサディズムがなかったなら、この心理学は全然存在しないであろう。」
精神医学の似非科学性はここに刻印された。科学の装いをすることで何かの地位を得た精神医学は、実は閉じ込めの別名だったのだ。この道徳的サディズムなしに精神医学は成立しない。それはこの始まりの時代に刻印されたことだが、今日の日本の状況を見れば歴史的に終わったことではない。精神医学があって閉じ込めがあるのではない。閉じ込める必要があるから精神医学があるのだ。始まりと終わりは一貫している。

もう一度概観すれば、ヨーロッパは17世紀以来の歴史の中で収容社会化する。労働の賛美と労働できない者、しない者の対比の中で、貧困層はピネルによって解放されるまで収容されていた。狂気は罪とされた。
ピネル以降に精神病という概念はできた。大量の労働者が生まれ、その中から大量の「病者」が生まれた。これは工業化以降に起きたことである。初めから、精神病には極度の抑圧社会である資本主義の階級性が刻印されている。

日本ではどうであったか。「病者」は私宅監置されていた時代が長い。1900年精神病者監護法によって座敷牢を合法化した。現状の追認である。19年精神病院法によって私的監置から公的収容へと移行する。座敷牢の解消としての精神病院収容政策の中で、精神病院に2万人収容した。一方、大多数の監置に至らぬ「病者」は社会で暮らしていたのである。
戦後、本格的収容社会化する。精神衛生法(50年~88年)から、精神保健法、精神保健福祉法体制のもと33万人入院者という体制に移行。背景には高度経済成長に伴う農村から都市への大量の人口の移動があった。大量の労働者が疲弊して入院することになる。戦前は結核が社会病であったが、戦後、精神病が中心になる。ライシャワーアメリカ大使が「病者」によって負傷させられたという事件を契機に措置入院が増えたことも重なった。私立病院に補助金を付けて病院建設を進めた。暴力的入院政策が取られたことを一つの契機として、33万人体制は出来上がったのだ。
ヨーロッパでは数世紀を掛けた変化が日本では短期間のうちに政策的に重なって進められた。労働が美徳であり怠惰は背徳であるという観念は、狂気を罪悪であるとみなす観念と共に、西欧化の流れの中で人為的に取り入れられた。資本の本源的蓄積過程で進められた工業化は戦後高度成長期に、影をなす膨大な「病者」の存在を前提としていたが、それらの者は暴力的収容政策の元、文字通りの暴力によって支配されていた。それは1970年代から始まる「病者」解放運動の時期まで続いたのである。

このように「病者」の歴史は資本主義社会によって規定されており、階級的性格を有している。それは歴史的存在であり、新たな歴史の中で変わるべき性格のものである。苦痛を取り除く医療は必要かもそれないが、「狂者」という存在様式を廃止する必要は必ずしも存在しない。「狂者」という存在を社会が再び認めることこそが、「病者」解放の目指すべき地点なのではあるまいか。

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