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2013年12月27日 (金)

ある「病者」運動論

われわれは吉田おさみさんを源流のひとつとしつつ違う点もある。どこが同じでどこが違うか。吉田おさみさんは「狂気」を肯定する立場から「治療」を否定した。また、主体性を自然界に害をなすものととらえ否定した。この主体性論からマルクス主義と実存主義を否定する。そしてフォイエルバッハの立場を肯定するとして「人間は能動的・主体的存在として自然を対象化し、客体化するばかりでなく、苦悩する存在として受動的・受苦的な存在として自然や他者との相互関係を作り上げる」と唱えたが、これは現在的にはわれわれの立場と近いものがある。当時のマルクス主義を「自然に対する人間中心主義、人間至上主義、人間絶対主義」として否定しているが、われわれもそのような古いマルクス主義派の立場は否定する。われわれは治療を否定する立場ではないが、治療しなければ社会的に価値がないという立場をとるものではない。治療はあくまで本人の苦痛を取り除くために行われるべきであり、「正気に戻して社会に戻す」のが目的では無い。吉田さんは「心神喪失」に「狂気」の「病者」の姿があるとして肯定する。われわれは「心神喪失」を価値観として否定はしないが、それは本人にとっては苦痛な状態であろうし、苦痛からは解放されるべきと思う。吉田さんは「心神喪失」を治すことが「病者」の解放ではなく、差別をなくすることが「病者」の解放であるという。これには上の「苦痛をなくすための治療は必要であるという」留保を付けるなら賛成できるが、吉田さんはこのような留保には反対であろうから、意見の分かれるとろろである。
吉田さんの「狂気の肯定」は多くの者に形を変えつつ引き継がれ、今日の「病者」解放運動の源流の一つをなしている。当時からの「病者」解放運動の流れは吉田さんによって紹介されているが、今日までそのままの形で引き続くものは少ない。その中で当時「虹の会」と呼ばれた階級的な立場を肯定する「病者」解放運動の流れが、今日のわれわれの源流である。われわれも「狂気の肯定」の流れをその意味で引いている。吉田さんとは違うところも少なくないが、「病者」をあるがままに差別から解放するという根本の思想では、流れを引いていると言って間違いではない。
この時代は多かれ少なかれ階級闘争と離れたところでは「病者」解放を論じられない時代だった。当時の全共闘運動は社会全体を動かす現象だったからだし、全共闘を否定する共産党系の運動にしろ、ソ連などの社会主義圏の存在が前提になって大きな影響力を保ちえたのである。全共闘運動が、資本家側の攻撃とスターリン主義化した運動側の影響力によって衰退し、ソ連圏の崩壊によって社会主義への期待が大きく削がれるなかで社共もまた衰退していく。社会党の崩壊はそのエポックである。

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