« 「生きづらさ」 | トップページ | 生活保護世帯の生活実態 »

2014年3月 2日 (日)

生きづらさと言うことについて、その2

薦められて小俣和一郎「精神医学の歴史」(レグレス文庫)「異常とは何か」(講談社現代新書)を立て続けに読んだ。フーコーにも言及があり(あまり評価していないようだが)、独自の視点から、狂気がかつては価値があることとされていた歴史があることを書いている。異常と正常は入れ替わり、ちょうど政権交代のようにその時の多数派の価値観を形成していること。中世から近世にかけての時期に価値観の転換があり、狂気が価値があるという考え方から、医療化の流れの中で狂気が再び異常に位置づけられるようになったことが描かれている。フーコーは評価しないと言いながら同じ結論に至っているのはそれが歴史的事実として確固として存在しているのだろう。精神医療史に詳しい小俣氏の言説は史実としての狂気の復権の道を開いたと言える。

医療の中の生きづらさは、脱権力化の中で脱却できないかと考えている。フィンランドで実践されているオープンダイアログ(開かれた対話)とか他国での医薬品を患者と共同管理に置く試みとかいろいろな医療における脱権力化の試みが行われている。社会における脱権力化を伴わないとマッチポンプに堕しかねないと思うのだが。医療者と言う権力者と支配される患者と言う関係性を脱却する試みとして面白いと思っている。私と主治医の関係性はそれとは別に権力関係を脱している。これは主治医の個性によるもので、たまたまそういう医者に巡り合ったという幸運なのだが。歴史的に患者会は医療の権力構造を打破する試みだった。そうではない「お医者様と下僕」の関係に堕した自称患者会も多くなった。政治的に振る舞う自称「キーさん」もいて話はややこしいのだが。

生きづらさは医療の枠内で起きることよりも社会で出会う人々の間で起きることの方が多い。クリニックと自宅を往復するだけの生活と言う人は少ないからだ。その意味では脱権力化だけでは生きづらさは脱せない。権力を持たない庶民の方が「病者」に敵対的であることは多い。、すべての庶民が敵対的であるわけではないが、あらかじめ味方に獲得している人でないと、「病者」と分かった時の対応はつらいものがある。味方が敵に転ずることもあろうが。たまたま偏見のないヘルパーに囲まれているが、自立支援法も偏見の多いヘルパー事業所だとそうはいかない。

生活上の苦しさも生きづらさを形成している。職を失うだけでも生きづらさは数倍化するが、「病者」は職を失うのはある種運命的だ。生活保護に対する偏見や、年金生活の経済的苦しさは確かに生きづらい。経済的実体としての生きづらさと、周囲の人間との関係、医療者との関係、この3つぐらいが生きづらさの実体なのだろうか。それぞれに解決方法を見出す必要があるテーマだ。

|

« 「生きづらさ」 | トップページ | 生活保護世帯の生活実態 »

-多事争論-」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/517951/59225212

この記事へのトラックバック一覧です: 生きづらさと言うことについて、その2:

« 「生きづらさ」 | トップページ | 生活保護世帯の生活実態 »