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2016年5月24日 (火)

「精神病者」の自己解放

「精神病者」の自己解放とは何なのでしょう。労働者なら搾取されなくなること、三里塚農民なら農地取り上げから解放され農に生きていくことなどなど明確な目標があります。「『精神病者』でなくなる」ことはゴールでしょうか。単なる自己否定ではないか。「精神病者」であるがままに差別されない状態があるのではないでしょうか。では「病者」にとって差別されなくなることというのはどういう状態なのでしょうか。「病者」は何に抑圧されているのかの反対側に解き放つということがあるのでしょうから、抑圧するものを具体的に捉えればいいのでしょう。

私が何故しんどいかを思いつくままに羅列してみましょう。症状の苦しみとそれを抑えている薬の負荷。負荷は数十キロの荷物を背負っているがごときと言われる。しんどさゆえの運動不足とメタボからくる病気。他人の差別的な視線。メディアの差別報道。運動仲間の無理解。飛び込んでくる差別的発言。世間には差別する人はいくらでもいる。「病者」仲間からの無理解な発言や攻撃。敵は味方の中にいる。家族・親族の無理解。労働や社会からの排除。仲間の死。「病者」は危険という考え方と強制入院制度。「病者」は主体的に身の振り方を判断できない存在だという決めつけ。いつ刃物を持って暴れ出すか分からない奴だという見かた。

そういう差別総体を作り出しているものは何でしょうか。精神保健福祉法と医療観察法のもたらしているもの、厚労省の施策、精神保健福祉村、一言で言えば精神保健福祉法体制に由来するもの、帝国主義支配のために作り出されたもの等です。差別とは別に症状と薬の負荷の問題があります。負荷も薬剤資本のもたらしているものと見ることもできますが、これはそれほど単純なことではありません。薬で抑えなければ症状は苦しいもので、それに苦しむ仲間も多いからです。

だとすると、法と精神病院と厚労省と精福法体制を形作る者達と闘い、精福法体制を打破することが「病者」の差別をなくすことです。差別をなくすことと解放はイコールではなく、症状と薬の問題は残ります。差別をなくすためには、しょうがいしゃ運動、社会革命運動に加わり、周りの大小の差別感情をなくすこと、小さな周りから差別をなくしていくこと。しょうがいしゃや革命運動にも差別はあります。それらの中の差別をなくすことから労働者大多数の大きな化学変化を作っていくこと。仲間の差別的視線を感じながら、それに変化をかもしだすことといったことになるのでしょうか。その小さな変化をもって、「病者」を抑圧する者達との対決、差別との闘いへの参加を促すこと。

そこにはワクワクする感じが必要です。それでないと人間性の解き放ちにはならないのではないかと思います。「苦闘」という言葉のように、闘いに苦しさが伴うこともあります。しかし、そこにかけるワクワク感がないと長続きしません。自己解放という四文字熟語は日常語に翻訳するとワクワク感ではないでしょうか。しかし私はうつ、抑うつ気分が基調です。その解き放ちとはフワフワした発散型のものではなく、抑うつ感の底にあっても真理を突詰める過程そのものではないかと思うのです。エーリッヒ・フロムが「全ての私を殺さぬものは私を強くする」という真理をユダヤ人収容所という人間抑圧のどん底で見つけたように、突詰める過程に解放感、ワクワク感がありうるのではないかと思います。

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