-理論的深化のために-

2012年8月 1日 (水)

日弁連会長声明

社会保障制度改革推進法案に反対する会長声明

民主党、自由民主党及び公明党が今国会で成立を図ることにつき合意した社会保障制度改革推進法案(以下「推進法案」という。)は、「安定した財源の確保」「受益と負担の均衡」「持続可能な社会保障制度」(1条)の名の下に、国の責任を、「家族相互及び国民相互の助け合いの仕組み」を通じた個人の自立の支援に矮小化するものであり(2条1号)、国による生存権保障及び社会保障制度の理念そのものを否定するに等しく、日本国憲法25条1項及び2項に抵触するおそれがある。

すなわち、推進法案(2条3号)は、「年金、医療及び介護においては、社会保険制度を基本とし、国及び地方公共団体の負担は、社会保険料負担に係る国民の負担の適正化に充てることを基本とする」として、年金・医療・介護の主たる財源を国民が負担する社会保険料に求め、国と地方の負担については補助的・限定的なものと位置付けており、大幅に公費負担の割合を低下させることが懸念される。

また、推進法案(2条4号)は、社会保障給付に要する公費負担の費用は、消費税及び地方消費税の収入を充てるものとするとしているが、財源の確保は、憲法13条、14条、25条、29条などから導かれる応能負担原則の下、所得再分配や資産課税の強化等の担税力のあるところからなされなければならない。

さらに、推進法案(4条)は、新設する社会保障制度改革国民会議の審議を経て社会保障制度改革を具体化する立法措置を講じるものとしているが、社会保障制度改革をめぐる国民的議論は、全国民の代表である国会において、全ての政党・会派が参加し、審議の全過程を国民に公開すべきであり、内閣総理大臣が任命する僅か20名の委員による審議に委ねることは民主主義の観点から不適切である。

最後に、推進法案(附則2条)は、「生活保護制度の見直し」として、不正受給者への厳格な対処、給付水準の適正化など、必要な見直しを実施するとしている。しかし、生活保護受給者の増加は不正受給者の増加によるものではなく、無年金・低年金の高齢者の増加と非正規雇用への置き換えにより不安定就労や低賃金労働が増大したことが主たる要因である。むしろ、本来生活保護が必要な方の2割程度しか生活保護が行き届いていないことこそ問題である。給付水準の見直しについては、最も低い所得階層の消費支出との比較により、保護基準を引き下げることになりかねず、個人の尊厳の観点からも是認できない。

当連合会は、2011年の第54回人権擁護大会において、「希望社会の実現のため、社会保障のグランドデザイン策定を求める決議」を決議した。しかし、推進法案は、上記のとおり、社会保障制度の根本的改悪、削減を目指すものとなっており、当連合会の決議に真っ向から反する法案である。

よって、当連合会は、今国会で推進法案を成立させることに強く反対するものである。
2012年(平成24年)6月25日

日本弁護士連合会
会長  山岸 憲司

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2008年10月14日 (火)

医療観察法の廃止のために

今日東京の国会議員会館で「心神喪失等医療観察法」をなくす会の院内集会が開かれ、民主党議員や社民党議員が出席したそうです。僕が社民党の阿部議員事務所にいろいろ協力を得ているから言うのではないですが、民主党による政権ができたら「医療観察法」がなくなると期待するのにはそうは簡単に行かないということを指摘せねばなりません。僕の地元では民主党予定候補は小沢派の超保守です。民主党が多数派になった場合、自民をまきこんだ政界再編があるとも言われています。民主党と自民による大連立ができるという予測ですが、あながちおおはずれとはならないのではないでしょうか。僕の地元の民主党候補のように自民党よりも右という議員が民主党にはたくさんいます。彼らにとっては政権を安定させるためなら自民と組むというのに抵抗感はないことでしょう。むしろ彼らにとっては革新的政策を打ち出すほうが抵抗は大きいと。

小泉改革による悪政として、郵政民営化、「障害者自立支援法」と並んで「医療観察法」があります。郵政民営化はすぐに撤回法案が出るのではなく、株式売却停止法という中間的な見直しにとどまるといわれています。民主党支持の郵便局の労働組合が民営化推進派だからです。当該が推進なのに撤回となるはずがありません。

「障害者自立支援法」では、民主党は一割負担凍結法を出すといわれていますが、その背後には法の廃止を望む数千人、万人の集会をする「障害者」の多数派が存在しています。このように民主党の政策にはっきりとした分岐があるのには、当該の労組や大衆団体の動きがあります。

「医療観察法」の廃止を勝ち取るには、当該の「精神障害者」の多数を獲得する闘いが不可欠です。それが廃止か存続かの分岐をもたらすものであることは明らかであるからです。「精神障害者」の獲得というところを離れて政界遊泳術で廃止を願望することは非現実的です。「精神障害者」を自民党政府方針に従わせる御用団体を解体し、「医療観察法」反対の立場に多くの人を獲得すること抜きに法の廃止は非現実的です。国の方針に従って「精神障害者」に社会適応させるというのではなく、社会を「精神障害者」に適応させるという大改革を実現する道に「精神障害者」や医療従事者を獲得する道が現実的な道です。

「肥前病院の自殺事件を問う」本を出版します。郵便振替00960-1-140519加入者名 共生舎にて500円を振り込んで注文ください。11月には出版予定です。団体で取りまとめていただければさらにありがたいところです。この本を広めることは「医療観察法」の廃止のひとつの具体的な道のりです。

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2008年9月 7日 (日)

労働者の解放か狭い利益か

農民闘争が労働者の運動にとってもつ位置は、「障害者」解放運動が労働者の解放にとってもつ意味と重なってきます。日本の農業は支配者にとっては票田であると同時に、工業製品の販売のためにはなくしてしまってよいものとして位置づけられています。FTA、EPAの問題です。外国人介護労働者がEPAの下で導入されたことは記憶に新しいことです。工業製品の販売のためには、「障害者」を利用しつくすという政策です。

すでに食料自給率40%ということになっている中で、さらる農業の破壊が策動されているのです。この農業を工業の発展のためには廃止していいという政策が一番初めに激しくかけられたのが成田空港の建設という問題でした。農地取り上げを国家の総力を上げて仕掛けている問題だからです。成田闘争の農民運動としての発展が空港敷地内農家の農地取り上げを契機に、新たに始まっています。市東さんの農地取り上げを許さないという問題です。

EPAで外国人労働者が介護職場に導入されていると言いました。工業製品を旧植民地諸国に売るためには、利用できるものは利用しつくすという日本の帝国主義の政策です。労働者が、農民、「障害者」、旧植民地の被抑圧民族人民と連帯するのか、工業の発展のためにはそれらは犠牲になってよしとするのかは、労働者の解放か帝国主義の内部での労働者の利権の拡大化という選択肢となっていると思います。いまの労働組合の主流である「連合」が、利権運動になりながら利権も取れないことになってしまったいるのは、帝国主義政策の犠牲となってしまっている被抑圧、被差別人民や農民のことを忘れてしまっているからでしょう。

そこに労働運動の目標をどこに置くか、労働者の解放のために被差別、非抑圧人民、農民と連帯するのか、それとも労働者の狭い利益のために労働者の利益以外には目をつぶるのかという分岐があると思います。

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2008年8月24日 (日)

高齢者いじめに反対

沖縄タイムスの記事を掲載したが、大和ではどうなのだろう。あまり高齢者が立ち上がったという話を聞かない。もっともマスコミの報道管制ということがあるから実はあるのかもしれない。

僕の通院するクリニックには高齢者のデイケアもあり大勢の高齢者が日中を過ごすために来ている。そのなかには集会等に参加している人も多い。毎年高齢者いじめの国の政策に反対しての集会が開かれているのだ。僕もできるだけ顔を出すようにしている。高齢者いじめだから高齢者だけの集まりとしてしまっては良くないと思う。

介護保険との統合に反対といいながら、そのひどい介護保険には反対しないとしたら、人格を疑われることだ。介護保険との統合反対、介護保険の抜本見直しということをスローガン化している怒りネットには信頼性があるともいえる。

ただスローガンだけにとどめないで、高齢者の立ち上がりにともに参加していきたいところだ。

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2008年8月21日 (木)

合理的差別ということ   

「差別禁止法」「国連障害者の権利条約」に思う      

「差別禁止法」とか「国連障害者の権利条約」とかが新たに出てきて、どう考えたらいいのかが問題になっています。多くの「障害者」団体が何かいいことがあるのではと思っているようです。はたしてそうでしょうか。「合理的配慮」という言葉がキーワードとして出てきています。

ここでは、直接そこから離れて、もともと、法律的には合理的差別という考え方があるという問題提起をしたいと思います。法律で差別一般を問題にしたものはありません。(千葉の条例の問題はここではおいておきます。)その中で差別には合理的理由のあるものと不合理なものがあるということが、法律論のなかで言われるそうです。差別という考え方自体が法律論にはないのですが、「差別」であっても合理的理由があれば許されるという考え方があるそうです。

僕の解雇撤回裁判を例に取ると、一審神戸地裁は不合理な差別であるからとして解雇を取り決すと判決し、大阪高裁・最高裁は合理的な理由のあるものであるから解雇は正しいとしました。僕の解雇撤回闘争というのは郵便配達人だった僕が、「精神障害」で休職期間いっぱい休職していて、休職期限切れの時期に「なんとか復職の道はないのか」と当局と話したときに、当局が「一般並みに働けないならダメだ」ということを言って復職させず、そのまま免職になったというものです。1992年7月6日のことです。僕は解雇撤回を裁判で訴えました。「復職の機会を不当に奪われた」という趣旨の裁判です。その結果神戸地裁で免職取り消しという判決が下りました。当局の控訴によって高裁、最高裁は当局を支持し免職が正当であると逆転判決を下したものです。2000年のことになります。合理的差別論の基準ここで合理的、不合理という基準はどこにあったのでしょうか。それが差別を法律的に考える際のキーポイントと思います。

神戸地裁は多少能率が落ちても、働くことの出来る職場があったのではないか、というふうに問題を立てました。能率が一般並みでなくても良いという問題の立て方をしたので、それなら原告にも働くことのできる条件があるのではないか、と考えたのです。仕事の内容によっては就労できたかもしれないのにそれを試しもせずに解雇としたのは間違っているという判決でした。不合理な差別であるという線をそこに引いたのです。

ところが大阪高裁は、「能率の落ちるものを雇用する義務はない」という郵政省の主張を全面的に取り入れました。郵政省は『「障害者」の雇用率は達成しているから個別の「精神障害者」を雇用することは義務ではない。ましてや一般並みの労働の出来ないものを雇用する義務はない。競争社会のなかで能率の落ちるものの雇用を義務付けることは郵便局に不当な不利益をもたらすものであり、不合理である。解雇したことの方が合理的である。能率の悪いものを雇用せよという義務を課する神戸地裁判決はまちがいである。資本主義社会で高見の様に能率の落ちるものを雇用する義務はないはずだ』という趣旨の主張を展開しました。

そして僕がいかに重度の「精神障害者」であるかという立証を熱心に行ないました。なお、この時点では「精神障害者」は「障害者」雇用率の対象でもありませんでした。大阪高裁判決はその主張を全面的に取り入れ、そこに合理的差別という線を引いたのです。最高裁がそれを追認したので判例は大阪高裁のものとなりました。

一般並みの能率の労働ができない者を雇用する義務はない。「障害者」雇用率を達成していれば個別の「障害者」を解雇しても差別ではないということが合理的だという線です。「資本主義社会では能率の落ちるものを雇用する義務はない」ということが合理的差別の基準になっています。後に「精神障害者」も雇用率に数えられることになりましたが、それは個別の「精神障害者」の解雇を不当とするものではありません。雇用率を達成していれば個別の「障害者」を解雇しても差別ではないという理屈です。これが雇用に関する差別問題の合理的基準をめぐる争いであり、最高裁判決の引いた線です。

欠格条項

法律的に「合理的差別」と言われるものも差別であること代わりはなく、許されざるものであることは言うまでもありません。別の言い方で、「絶対的欠格条項」はまちがいだが、「相対的欠格条項」ならよいという考え方が「障害者」団体の中にもあります。僕の免職は「相対的欠格条項」によるものなので僕の立場は「相対的」であろうが「絶対的」であろうが欠格条項は撤廃せよということです。

「絶対的欠格条項」とは「障害者」であればその職につかせることは出来ないという問答無用の職業からの排除です。「相対的欠格条項」とは、一定の条件を設け、その条件のかなわない場合に職業から排除する法律です。一見すると相対的欠格には合理的配慮があるように見えます。だから「障害者」団体が相対的欠格ならかまわないとしているのです。「絶対的欠格条項」が「相対的欠格条項」に変わったらそれ以上は問題にしないというのが一般的です。

「相対的欠格」条項がある限り差別は無くならない

僕の免職は合理的理由があるとするのが大阪高裁判決であることは既述しました。僕は十分な配慮をしたとしても就労にかなわない状態であったから免職は適法であるというものでした。これは相対的欠格条項の中に当てはまるものです。「障害のために国家公務員に向いていない者は解雇できる」というのが国家公務員法の相対的欠格条項です。誰が「向いていて」誰が「向いていない」かの判断権は雇用者にあります。裁判になってもそれが追認されることでしょう。この線がどこに引かれているかはすでに述べたとおりです。いくら「障害者」当該が「僕は国家公務員に向いている」と主張しても、雇用権者が「能率が悪いから向いていない」といえばその職にはつけないことになります。「障害」のために職業の求める能率を果たせない者は、職業から排除することは適法であるというものです。これが相対的欠格条項の考え方です。

一見して合理的なように見えます。では神戸地裁判決とはどこが違うのでしょうか。神戸地裁判決は「相対的」の幅を広く取ったもので、「相対的欠格」も憲法違反であるという僕の主張は入れませんでした。しかし、実質的には「相対的」の幅を広くした結果として「欠格条項」全体を適用しにくくする判決となっているのです。神戸地裁判決は、郵政省が僕の免職に当たって、十分に復職するための条件を検討しなかった点を取り上げています。就労できる適当な職があったはずだし、そのように適当な職があるかどうかを検討しなかった点で首切りのための首切りになっていることを指摘しました。

相対的欠格といっても運用次第では絶対的欠格条項と同じ質を持つものだし、したがって相対的欠格であってもこの解雇はまちがいであることを指摘したものです。

「到底就労できないようなよっぽどのことがない限り免職にしてはならない」という判決です。これでも「よっぽどのことがあれば免職にしてもよい」という論理であり、僕としては容認できないものです。実際に高裁段階では当局は「そのよっぽどのことに相当する『重度の精神障害者』だから免職は正当である」という主張をしました。神戸地裁判決も付け入る隙を与えていたのです。大阪高裁は「合理的差別は正当なもの」という立場に立って相対的欠格の基準を一般並みの労働が出来るかどうかというところに置いたのです。

だから、合理的差別は適法という考え方を容認することは、あらゆる差別を「合理的」とする余地を残すことになります。「障害者」が不合理な差別だといくら主張しても裁判所が「一般並みが基準だから合理的だ」と判決する可能性が極めて高いといえます。それは僕の裁判での最高裁判例がある以上、単なる可能性の問題ではありません。

民営化された郵便局会社は、この高見免職のやり方を路線的方針化しているようです。最近、復職を求めている「病者」労働者の要望に反して免職にしたという事例があります。免職にしないまでも、復職を求める「病者」労働者の復職を阻むために、主治医が復職可能という診断書を書いても、産業医が復職不可という診断を下して、就労をさせないという事例が続出しています。先ほど書いた免職になった人もこの産業医診断による復職不可という休職処分を繰り返されていたと聞きます。このような免職の事例は陰に隠れて多数あるものと思われます。

「合理的差別は容認する」「合理的配慮をすれば差別ではない」というような法律を作ったら、何でもかでも「合理的」だとされてしまう現実があるのです。

差別の止揚

 結論的には、合理的であろうが不合理であろうが、差別は絶対によくないという立場に立つべきだということです。裁判所という権力機関にその判断をまかせるなどということは最悪です。裁判所というのは国家意思を貫徹するために存在しているのですから、問題がより根本的になるにしたがって、国家意思、すなわち資本家の立場を貫徹しようとします。それを人民のものとするために闘うわけですが、闘いの背景がないところではよりストレートに国家意思が貫かれます。闘いで押し戻すための努力を考えたら、はじめからそのような法律は作らない方が良いに決まっています。 「合理的差別」、「相対的欠格条項」の立場というのは、ほっておけば全ての差別は合理的だというところに拡大解釈される余地を残すものです。最近の郵便局会社のやっていることはその拡大解釈です。 

「障害者」と労働者のとるべき立場はいかなる差別にも反対、いかなる「欠格条項」にも反対という立場です。その立場にすべての労働者を獲得していったときに、労働者からする差別関係を止揚し「障害者」と労働者が「ともに生きる」社会へ向けての飛躍を実現できるのだと思います。 

いま「合理的配慮」がおこなわれるなら禁止すべき差別とはみなさないというようなことが言われだしているときに、それが「合理的差別」とどう違うというのか。きわめて憂慮すべきことだと思います。

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2008年8月14日 (木)

欠格条項

法律の言う「合理的差別」というのが許されざる差別であることは言うまでもない。別の言い方で、「絶対的欠格条項」はまちがいだが、「相対的欠格条項」ならよいという考え方が「障害者」団体の中にもある。高見免職は「相対的欠格条項」によるものなので私たちの立場は「相対的」であろうが「絶対的」であろうが欠格条項は撤廃せよということだ。

「絶対的欠格条項」とは「障害者」であればその職につかせることは出来ないという問答無用の職業からの排除だ。「相対的欠格条項」とは、一定の条件を設け、その条件のかなわない場合に職業から排除する法律だ。一見すると相対的欠格には合理的配慮があるように見える。だから「障害者」団体が相対的欠格ならかまわないとしているのだ。

高見免職は合理的理由があるとするのが大阪高裁判決であることは既述した。高見は十分な配慮をしたとしても就労にかなわない状態であったから免職は適法であるというものだった。これは相対的欠格条項の中に当てはまるものだ。「障害」のために職業に就くことが困難な場合には職業から排除することは適法であるというものだ。これが相対的欠格条項の考え方だ。一見して合理的なように見える。

では神戸地裁判決とはどこが違うのか。神戸地裁判決は「相対的」の幅を広く取ったもので「相対的欠格」も憲法違反であるという原告主張は入れなかった。しかし、実質的には「相対的」の幅を広くした結果として「欠格条項」全体を否定する判決となっている。

神戸地裁判決は、郵政省が高見免職に当たって、十分に復職するための条件を検討しなかった点を取り上げている。就労できる適当な職があったはずだし、そのように適当な職があるかどうかを検討しなかった点で首切りのための首切りになっていることを指摘した。相対的欠格といっても運用次第では絶対的欠格条項と同じ質を持つものだし、そのような絶対的欠格は間違っていること、したがって相対的欠格であってもまちがいであることを指摘したものだ。

だから、合理的差別は適法という考え方を容認することは、あらゆる差別を「合理的」とする余地を残すことになり、「障害者」が不合理な差別だといくら主張ても裁判所が「合理的だ」と判決する可能性が極めて高いこと。「合理的差別は容認する」というような法律を作ってはならないことを指摘したい。

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2008年8月13日 (水)

合理的差別ということ

差別禁止法とか条約とかが新たに出てきて、どう考えるべきかという問題になっています。直接そこから離れて、法律的には合理的差別という考え方があるという問題提起をしたいと思います。法律上差別一般を問題にしたものは今のところ千葉の条例しかないと思います。そういう中で差別には合理的理由のあるものと不合理なものがあるということが、法律的には一般的になっています。

僕の解雇撤回裁判を例に取ると、一審神戸地裁は不合理な差別であるから解雇を採り決す判決し、大阪高裁・最高裁は合理的な理由のあるものであるから解雇は正しいとしました。ここで合理的、不合理という基準はどこにあったのでしょうか。神戸地裁は多少能率が落ちても、働くことの出来る職場があったのではないか、というふうに問題を立てました。能率が一般並みでなくても良いという問題の立て方をしたので、それなら原告にも働くことのできる条件があるのではないか、それを検討せずに解雇としたのは間違っているという判決でした。不合理な差別であるという線をそこに引いたのです。

ところが大阪高裁は、「能率の落ちるものを雇用する義務はない」という郵政省の主張を取り入れました。郵政省は『「障害者」の雇用率は達成しているから個別の「精神障害者」を雇用することは義務ではない。ましてや一般並みの労働の出来ないものを雇用する義務はない。そのような義務を課する神戸地裁判決はまちがいである』という主張を展開しました。この時点では「精神障害者」は雇用義務率の対象でもありませんでした。大阪高裁判決はその主張を全面的に取り入れました。そこに合理的差別という線を引いたのです。最高裁がそれを追認したので判例というのは大阪高裁のものとなりました。

一般並みの労働の出来ないものは雇用の義務はない。「障害者」雇用率を達成していれば「障害者」を解雇しても差別ではないという線です。後に「精神障害者」も雇用率に数えられることになりましたが、それは個別の「精神障害者」の解雇を不当とするものではありません。雇用率を達成していれば「障害者」を解雇しても差別ではないという線は引かれているのです。

これが雇用に関する合理的差別と不合理な差別をめぐる争いであり、最高裁判決の引いた線です。みなさんの議論の参考になればと思います。

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